2018年03月18日(日) 神宮寺仁王門の調査報告会並びに講演会、丹生山神宮寺(多気郡多気町丹生) (車、徒歩)
本日は伊勢古文書同好会の勉強会に参加する予定であったが、昨日に丹生山神宮寺を訪れた際に次の案内を見つけてしまった。この機会を逃したら・・・急遽予定を変更し、こちらの調査報告会に参加することにした。(伊勢古文書同好会の皆さんゴメンナサイ!)
丹生山神宮寺(多気郡多気町丹生)では次の記事で紹介したように大規模な修復工事に入っていた。
【参考】
- 山門(仁王門)は大規模な修復工事に、丹生大師(丹生山神宮寺)(多気郡多気町丹生) 2017年10月28日
昨年の11月より解体工事が開始され12月の末には終えられた。そして現在は礎石も別の場所へと移動され仁王門が建っていた場所は更地となっていた。
昨日に聞いたように3月24日には地鎮祭が執り行われ修復工事が開始されるのだろう。そして一年半ほどの工期の後、来年(2019年)10月21日の「秋の大祭」には落慶法要が営まれるとのことだ。
今回の解体工事においてはその過程が事細かに記録され、棟札や解体された部材、礎石などからは仁王門他の歴史を物語る多数の証拠が発見された。それを受けて解明された(る)内容についての調査報告会が中間報告としての位置づけで実施された。
定員は約60名となっていたが、それ以上の見学者が集まったのではないだろうか。
まずは解体された部材等の展示ホール前において説明会の趣旨と展示物の概要が説明されると、
報告会および講演が実施される客殿への移動となった。
客殿では定刻(13時半)になると丹生山神宮寺の住職である岡本祐範さんの挨拶に始まり、調査報告会および講演会が実施された。
前半の調査報告会では「解体から見えてきた仁王門の姿」と題し、お二人の方からの報告があった。
【解体工事の過程を写真にて紹介】
仁王門の修復工事を担当する工務店の方(おそらく有限会社伏田工務店の北野さん? 耳で聞いただけなので間違っていたらゴメンナサイ)より、解体工事の工程を撮影した写真と共に部材の傷み具合やかつて存在していたであろうと思われる須彌壇の痕跡などについての説明があった。
仁王門が上部から順に解体されていく様子が写真とともに紹介された。鯱瓦や鬼瓦、丸瓦を取り外すと全面が平瓦となる。さらに平瓦を取り外すと土葺きの土があらわになった。前回の葺き替えから60〜70年が経過していたそうだ。その下には杉皮、野地板、野地垂木と続く。杉皮の一部には杉板が残され、元々は杉板が張られていたことを後世に伝えるための仕掛けではないのかと思わせるとも。さらに、野地垂木の下には棟木、母屋など・・・どんどん下部へと説明が進んだ。写真を見ながら説明を聞くとまるで現場に臨場したかのような感覚になれた。
解体の過程で明らかになるのは瓦の割れ、ズレ、漆喰の流れ落ち、木材の虫食い・割れ・雨風による劣化・土のようになるほどの腐食、鳩のフン害、スズメバチの巣跡など・・・、傷みの激しい仁王門の実態が明らかになった。しかし、明らかになるのは悪いことばかりではない。解体された部材(棟札、棟束、瓦、彫物、擬宝珠など)から多数の銘文が見つかった。これらの記録は仁王門、さらには神宮寺の歴史を詳細に物語ってくれるかも知れない。
これらの銘文などを遺した史料からの調査は次の報告者である伊藤裕偉さんに委ねられた。
【解体により発見された銘文等の調査】
解体の状況報告に続き、伊藤裕偉さんからは史料調査の途中経過が報告された。伊藤さんは三重県教育委員会の社会教育・文化財保護課に勤務されているが今回は仕事ではなく、個人的なつながりのなかで本調査を引き受けられたそうだ。
銘文の定義(木や金属などにわざと記録として書かれたもの)に始まり、今回発見された史料(銘文が記された棟札、棟束、礎石、棧、鬼瓦、擬宝珠、彫物)により明らかになったことが紹介された。これらの史料に基づいて作られた略年表には仁王門の建立だけでなく神宮寺の再興を記す記述も見られる。
この略年表によれば、仁王門は元禄4年(1691)秋に建立を発願されたが、元禄14年(1701)7月に発願者である法印文堯が卒したため建設は中断された。その後、宝永2年(1705)春に法印知元により建設が再開され翌年の11月に完成を見た。しかしその時点では屋根に瓦が葺かれていなかったと判断でき、完成とは言えない。その3年後、宝永6年(1709)2月には鬼瓦調整とある(これで屋根も完成?)。このように仁王門は発願からかなりの年月を要して完成に至った。
また、実際の建設作業においては山田(現在の伊勢市、外宮周辺)の大工が深く関わり、瓦については丹生以外にも周辺地域(現在の地名では、伊勢市岩渕、大紀町野原黒坂、大台町栃原、多気町野中)の職人が携わっていた。擬宝珠を制作する鋳物師(いもじ)や彫刻師については京都の職人を頼っていた。なかでも彫刻を担当した九山新之烝は京都本願寺、一身田専修寺などの彫刻を手がけた超一級の彫刻師だったそうだ。つまり在地で作れるモノは在地で調達したが、高度な技術が必要なモノは遠方より調達した。
このように今まで地元の地誌「丹洞夜話」などでは知り得なかった多くが仁王門という建物に遺された史料により明らかにされた。
しかし、まだまだ明らかになることは多いようだ。なかでも伊藤さんが新たな課題として考えられていることは大きく二点。ひとつは【棟札の謎】で、「寛永棟札」は仁王門の造営とどのような関係にあるのか? また「宝永棟札」が存在し(見つから)ないのはなぜか? もうひとつは【法印知元の謎】、仁王門の建設を主導したのは法印知元であるが「丹洞夜話」などに記された歴代の神宮寺住職のなかに法印知元の名は見られない。知元とは45世堯政なのか、それとも46世宥線なのか、それとも・・・。現時点で法印知元の実体は不明だが、先日大師堂の前にある手水鉢で知元の名を発見したと語る伊藤さんはとても嬉しそうだった。
今後の報告が楽しみだ。
以上で、調査報告会を終了するとしばしの休憩をはさみ後半の講演会へと引き継がれた。
【神宮寺の建築の価値について】
講演者は三重大学大学院工学研究科建築学専攻 教授である菅原洋一さんだった。
菅原さんは講演の冒頭で、私は神宮寺および仁王門の調査に携わったことがないため第三者として、ここでは仁王門だけではなく伽藍全体の建物について紹介します。と・・・
日本の仏教の推移、日本の寺院建築の推移について概説した後、神宮寺が再興された江戸時代の寺院建築の傾向についての説明。日光東照宮や成田山のように構造よりも装飾、金物、彩色にお金をかける傾向と京都・近江で見られる古くからの伝統的な形式を重視する傾向の二極が存在した。神宮寺は主要な建物が中世形式を基本とする後者である。
さらに、江戸時代の建築物は文化財的な調査・研究・評価が遅れていたが昭和52年から平成2年の県別の全国的調査事業(近世社寺建築調査)により寺院建築評価の環境が整った。評価ポイントは次の5種類、地域的特色、年代的特色、宗教的特色、伽藍配置の特色、流派(大工)的特色である。これらの調査結果による国宝や重文、各自治体の指定例および神宮寺に関する調査報告(4例)が紹介された。
また、「地誌なので鵜呑みにはできないが」との注意を喚起した上で先の調査報告でも登場した丹洞夜話から神宮寺の草創由緒が引かれた。神宮寺は丹生大明神(丹生神社)を前提として存在し水銀や水との関わりが大きい。江戸時代の当初から今日の伽藍配置が順次整備されたため、造営と修理が連続し常時大工が出入りしていたと考えられる。これが流派(大工)的特色を作り出しているのだろう。疑問点は、本殿がいつ建てられたのかが不明であること、他の建物が直線上に配置されているにも関わらず大師堂だけがその線から外れた高台に存在するのはなぜか?。と菅原さんは語った。
その後、神宮寺の各建築物について構造的な特徴が紹介されるとまとめとして神宮寺の建築の価値が説明された。
建築については、建築時期に差はあってもそれぞれが正統的な手法で作られ質が高く、意匠的な共通性が高い。境内については伽藍景観が優れ、江戸時代の雰囲気が濃厚である。また歴史性については由緒も古く丹生の歴史と密接に関連し、文字史料は少ないものの建築物から得られる史料により建物や地域社会に関わる資料が得られる可能性がある。
そして、菅原さんは最後に次のように結ばれた。
現在、町指定文化財となっている各堂は、特に高い価値があり、今後更に、評価を上げるために調査を行うことが望ましい。
神宮寺の建築には、以上のような高い価値があり、今後、この建築を良好に維持し、後世に伝えていただきたい。
以上で、調査報告会並びに講演会は終了となった。
私は客殿を後にすると
まずは建立年が不明な本殿にお参りした。
続いて薬師堂の脇に置かれていた仁王門の礎石を眺め、触った。平は表面に残された柱跡が印象的だった。
さらには高台へ登り、大師堂前に設置されている手水舎へ向かうと
知元の名が刻された手水鉢を確認した。
大師堂を後にして客殿前を通り過ぎ・・・
するとこんな所にも仁王門の礎石が列べられていた。(今まで気付かなかった)
最後に仁王門解体後の保管物が展示されているホールに立ち寄ると神宮寺を後にした。
さて、次は建設途中の見学会が実施されるのだろうか?
楽しみだ。