2018年12月22日(土) 地元案内人と行く伊勢乃国「一之瀬城跡」と地域の歴史ツアー (車、徒歩)
本日は地元案内人と行く伊勢乃国「一之瀬城跡」と地域の歴史ツアーに参加した。
本ツアーは「度会町役場産業振興課」が主催し「度会町地域資源を守る会」のコーディネートにより「一之瀬城跡を守る会」が案内するもので、度会町の三団体が連携しての地域振興も兼ねた体験会である。
昨夜からの雨は今朝も降り続けていた。しかし、午後からは雨は上がるとの天気予報がでていたため決行されるとの連絡が入った。中止だと思い朝食後にゆっくりしていた私は急いで準備すると集合場所である一之瀬神社(度会郡脇出)へ向かった。
実際の集合場所は旧一之瀬小学校体育館(じつはここも一之瀬城(東の城跡)の一部)の前で、すでの数名が集まっていた。私は何とか集合時刻の5分前に到着することができたので、ツアーが開始されるまではこれから訪れる一之瀬跡を遠望していた。
定刻となり主催者(度会町)よりツアーの開始が告げられると、コーディネーター(度会町地域資源を守る会の御村一真さん)から本ツアーの趣旨等が説明され、本日の案内人(一之瀬城跡を守る会の会長である北畠充生さん)が紹介された。
北畠充生さんには、以前にも「一之瀬城跡」を案内していただいていた。そのため今回のツアーはその時の記憶の呼び起こしと穴埋めのためのものとなった。
【参考】
- 宮川流域案内人とともに一之瀬川・上流域 能見坂峠巡りツアー 2015年10月03日
また、北畠さんは神島小学校の教諭であり、先日に「海の博物館」で拝聴した阪本博文さんの講演に登場した方だった。(中止となった「ゲーター祭り」復活へ願いを込め、神島小学校の児童による「子どもゲーター祭り」を実現させた)
【参考】
ほどなくツアーは開始されたが、天候の関係で雨が止むまでは座学となった。そのため一之瀬城(西の城跡)の麓にある脇出公民館へ移動することとなった。
高速で通過する車に注意しながら県道22号を横断すると先ほど眺めていた一之瀬城(西の城跡)を目指すと
度会町一之瀬公民館を通り過ぎた先を左へ曲がった。
坂道を下ると石垣が立派な廣福寺の斜め向かいにある
脇出公民館に到着した。
まずは北畠充生さんにより説明が開始された。
城主であった愛洲氏に加えこの地には有力者として帝釋氏、向井氏がいた。愛洲氏はここから田丸や五ヶ所へ出ている。
城跡に関しては軍事機密のため一之瀬城についても史料は残されていない。しかし後醍醐天皇の皇子である宗良親王の家集である李花集には自身がこの地に居たことが示されていて、南北朝の戦乱にあり緊張関係のなかで一之瀬城が築城されたと考えられる。城の立地としては三方が川に囲われた最適な場所にあり、土器などの多くは東の城跡および西の城跡を囲む台地状の場所から出土されている。そのためこの範囲が城跡だろう。この場所は今でこそ田舎であるが当時は海からと山からの交差点、交通の要衝となっていただろう。武士は関銭でも収入を得ていた。
そのほか、一般的な山城と一之瀬城の違いなどが紹介された。
先に訪れる一之瀬城(西の城跡)は主郭の東西には多数の空堀が設置され、南北は切り立った崖となっている。また、一之瀬城(東の城跡)は主郭の北・西・南側を空堀で囲われ、北側は3重の切岸がある(った)。
そして、なぜに「一之瀬城跡を守る会」が結成されたのかについて話が及ぶと今まで以上に力が込められた。
歴史ある一之瀬城跡、東の城跡には一之瀬神社が鎮座し、旧一之瀬小学校が建っている。小学校の建設にあたっては城跡の一部が削られた。さらに神社では20年に一度の遷宮があり、そのたびに主郭や土塁が削られ、空堀は埋められる。遷宮の度に一之瀬城跡は壊される。「守らなくては!」との思いから「一之瀬城跡を守る会」を立ち上げ、各地区の方々、一之瀬神社宮司等が参加し、会員数20数名となっている。2015年には度会町の文化財として指定された。「度会町指定文化財(記念物:史跡) 一之瀬城 東の城跡・西の城跡 平成27年4月20日指定」。ただしその一部が破壊されているため県指定を得ることはできない。
続いては、昼食前に訪れた廣福寺の特徴について。
廣福寺は一之瀬城(西の城跡)の寿宝院跡にあったとされ、住職の名が廣福だった。現在の廣福寺は三方が石垣で囲われ、数mに及ぶ野面積みの石垣は素晴らしい。また、建物は文化文政のもので当時は玄関に張り出しがなかった。改修の際に張り出しを付ける工事の際、屋根は草屋根だったことがわかった。また鐘楼には戦中の供出を免れた梵鐘が釣られている。これは蛸路の鋳物師にて作られたものである。
さらには詳細な自己紹介や裏話など興味深い内容が次から次へと展開された。
続いては「一之瀬城跡を守る会」の副会長である神森正春さんから一之瀬獅子神楽についての説明があった。
一之瀬獅子神楽は3回、神社での舞を体感したことがあったので、聞き入ってしまった。
【参考】
- 一之瀬神社の獅子神楽(度会町脇出) 2015年02月11日
- 一之瀬神社獅子神楽、一之瀬神社にて(度会町) 2017年02月12日
- 思いがけない出来事・・・、一之瀬神社獅子神楽(度会町脇出)2018 2018年02月11日
2015年2月11日の記事に 度会町史より引用し、次のように記述したが
古老の話によると愛洲氏が脇出に築城したおり、その城の隅櫓にあった四頭のうち三頭(南中村、和井野へは一頭ずつ。脇出、市場へは共有で一頭)を分けたと言われ、その後脇出は、文化五年(1808)に共有の獅子頭を市場に譲り新調したという。
神森さんの説明はさらに詳しかった。
一之瀬には7地区あり3頭は(南中村・川上)、(和井野・柳・小萩)、(脇出、市場)、各グループの先頭地区が管理。なお、残り1頭は南勢町の斎田へ伝り、田んぼの中の祠に納められている。
現在は南中村・、和井野、脇出、市場の4区により獅子神楽が奉納されるが、お歌の歌詞には共通点が多く、出どころが共通であることは明らかである。
私が疑問に思っていたことが明らかになった。
- 最初に面を付けずに舞うのはその場に危険がないことを確認するため
- 脇出の獅子が脇出公民館(今いる場所)から一之瀬神社へ向かう途中で旧一之瀬小学校を背にして拝礼する(2015年02月11日の記事に動画もあり)のは、その方向に神社があったから。
また、今後の獅子神楽の存続について
神事の斎行日はもともと旧正月15日であったが、2月11日(祝)に、さらには2月第二日曜に変更されている。これは少子高齢化により担い手が少なくなると共に、勤め人が増えている社会情勢によりものだ。
このように神事の担い手を確保することは大変で今後も続けられるのかは不安でもある。
私(神森さん)が区長を務めていた時、「着物がないために獅子神楽の役にはつけない」と言う人が現れたので区で貸出用の着物を確保した。
脇出による一之瀬獅子神楽が公民館前で舞われる宿番の映像を見始めたところで、天候が回復をみたので、昼食前に廣福寺を見学することになった。
公民館をであると傘が不要なほどに天候は回復していた。公民館の前に建てられている天神社趾の石碑が雨に濡れ、印象的だった。その背景は一之瀬城(西の城跡)。
目と鼻の先にある廣福寺の石垣へ移動するとその高さと野面積みの巧みさを実感した。
大雨になるとこの場所から大量の水が吹き出すそうだ。舗装される前はこの下に穴が空いていたそうで、ここは水抜きになっているようだ。穴は塞がれてしまっても、裏込石の隙間を伝って集められた水はこの場所から吐き出されるのだろう。
この石垣を背にして川の向こうに田んぼがあるが、ここから石垣に積まれているものと同様な石が見つかった。この石垣は目の前に川で流された石を使って積まれたのだろう。
公民館付近の流れはこんな感じ。
石垣を後にすると門前への階段を進んだ。
こちらが恵華山 廣福寺で、玄関には張り出しが設置されている。
一之瀬城(西の城跡)は所有者である青木さんに因み青木山と呼ばれるが、恵華山、撞木山(鐘を撞く木)とも呼ばれていた。
鐘楼に
釣られている梵鐘には次のように刻されていた。
廣福寺 現住 諦秀
天明五龍集乙巳仲冬中浣
勢州飯野郡蛸路村住
常保河内藤原清直作
「天明五龍集乙巳仲冬中浣」の意味を調べると、龍集(りゅうしょう)とは年号の下に干支を伴って記す語、年・歳次である。仲冬は冬半ばの一か月、陰暦では十一月、さらに一か月を十日ごとに三等分すると上浣・中浣・下浣となる。
つまり、天明五年(1785)乙巳(きのとみ)、11月中旬、蛸路村の鋳物師 常保河内藤原清直に作られた。
廣福寺を後にすると脇出公民館へ戻ると昼食になった。昼食後も獅子神楽について神森さんは積極的に説明してくださった。
こちらは神森さんらが練習用に作成した獅子頭で、自由に体験していいとのこと。(本物の獅子頭は関係者以外は触れないし、関係者でも素手では触れない。)
こんな機会はなかなか無いので、私も体験してみた。(こちらは、コーディネーターの御村さん)
こちらは北畠さん。獅子頭に触れるのは初めてだった。
昼休憩を終えると城跡めぐりとなった。私は公民館を出る前にパチリ。これは壁に張られた脇出区全図で「赤道・屋号調べ」となっていた。「赤道」には惹かれてしまう。
公民館を後にすると
来た道を戻り
度会町一之瀬公民館付近で道標に従った。これらすべての道標、案内板は神森さんが作成されたそうだ。
案内に従えば迷うことはない。帝釋本家の跡地を左へ回り込むと
ここから一之瀬城(西の城跡)へ入る。
右方向へ進むと
主郭と寺跡の分岐にて
左下を望むとあの辺りに井戸があるそうだ。
こちらも神森さんお手製の杖。来訪者への思いやりが詰め込まれている。
先ほどの分岐を右へ進むと寿宝院跡へたどり着く。
ここは平で広い。
寺跡を後にすると尾根の途中から取り付き
主郭へ向かった。
一歩々々進むと
門があったとも思われるような場所を過ぎる。
その先には空堀や土塁があり、いくつかの郭が見られる。それらを過ぎて
最頂部へたどり着くとここが主郭である。新しい案内板の下には
以前にも見かけた山頂標が掛けられていた。
主郭部をさらに西方向へ進むと
その先には多数の空堀が設置されている。
今では土砂等で埋まり
堀の底は浅くなっている。
空堀の体感を終えると主郭を後にした。
こちらは稜線を下る途中で右方向の場所に残されている小さな五輪塔。この下には青木家の土蔵などが望めた。
稜線をさらに下ると先の案内板で、小さな道標「←館跡」に従った。
その先には
向井将監屋敷跡がある。
西の城跡を後にすると真っ直ぐに東の城跡へと続くこの道を進んだ。
もしかしたらここは馬場だったかも?
高速で走る車に注意しながら県道22号を横断。(近くで死亡事故が発生したそうで、歩くのも車で走るのも要注意だ。)
こちらは一之瀬神社前に設置されている説明板。
さらに、その隣にはポストが設置され、この中には見学資料や寄せ書き帳が備えられている。「一之瀬城(東の城跡・西の城跡)」を見学される場合は、最初にこちらに立ち寄るのもいいだろう。
まずはこちらで石碑についての説明。
一之瀬神社第四回式年遷座祭記念碑
沿革 明治四十年五月各宇の氏神を市場ノゴ鼻三一八番地に合祀し一之瀬神社と申し奉る
大正二年三月脇出三一九番地に社殿を建設して遷座され今日に至る境内は一之瀬城址として古くから知られ又南朝の宗良親王の遺蹟の地とも伝えられ共に由緒深い景勝の地である
昭和四十八年二月十一日には第四回式年遷座祭の盛儀が執り行はせられ新たに御造営された社殿に御むかえし益々一之瀬神社の御神威発揚に努むることを御誓ひするものである
氏子一同この喜びは何物にも代え難く大神の御神徳を永久に忘れることなくこれを建立する
一之瀬神社の鳥居をくぐると階段を進んだ。
こんな石があったとは!
参道を進むと拝殿の右側へ移動し
まずはこちらへ。
ここには七基の山神ほかがまつられている。これらは神社をこの地へ移した際に、先に紹介した7地区から持ち寄られたもののようだ。しかし、山神や氏神と刻されていない自然石が2基ある。どこの地区かは不明だが、山神や氏神を寄せるのを拒んだのだろうか。
こちらは一之瀬城(東の城跡)の主郭の壁面である。
前回の遷宮に際し、2〜3mの幅で削り取られてしまった。このようにして城跡は破壊される。ただし、不幸な中でメリットを見つけるとすれば、この傾斜は築城当時の切岸(人工的に切り落とした崖ような斜面)の様子が再現されている。通常は切岸に土砂等が積もり崖は鈍ってしまうため、本来の姿を見る機会は少ない。
左側へ回り込むと
空堀が確認できる。
しかし、その途中には重機用の道路が付けられ、土塁や空堀は破壊されていた。
工事の際に掘削された土砂で各所の空堀は埋められ、当時の堀の規模を体感することはできない。
こちらは水平方向がうねっている土塁。なぜにうねっているのかは不明である。
さらに、この先には竪掘があるが、かなり埋められている。
その脇には「一之瀬城跡を守る会」により主郭へと進む階段が設置されている。
階段を上る際、竪堀をパチリ。
階段を上るとその前にはこんな空間が広がっている。北畠さんは私達に狙いを定めると次のように発した。
ここは桝形の虎口ではないだろうか。
主郭にて参加者からの質問を受け、北畠さんは次のように答えていた。
城は権威付けのために存在し意地を見せるためのもの。ケンカのための保険のようなもので、この城は小領主の戦い程度でしか役に立たない。
また、神森さんによると
ここは元大松株、かつては一之瀬神社の杜のシンボルとして立っていたが伊勢湾台風で倒されてしまった。この社叢では他に松は認められないので、意図的に植えられたとしか考えられない。この規模の松が立っていたすれば主郭は神社側にかなり張り出していたと想定できる。
主郭を後にすると順路3へ進んだ。その先には
竪堀が残っている。
ところが、こんなところにも竪掘の痕跡が見られる。
さらに神宮遙拝所の奥にも竪堀らしい痕跡が・・・。
このことにより3本の竪堀が並行していたと想像できる。
こちらでは宗良親王が読んだ歌について記されている石碑が説明された。
延元二年夏頃伊勢国一瀬といふ山の奥にすみ侍
しにほどどぎすをききて
美山をはひとりないてそほとゝきす
われもみやこのひとはまつらむ
この宗良親王御歌は李花集に在り 謹みて案するに親王
は延元の乱に京師を遁れ伊勢に入り暫く一瀬城に駐まり
給ひ義兵を鼓舞せらる 伊勢国度会郡一之瀬村大字脇出社地
はその旧址なりと云ふ 郷人従五位勲五等三浦順太郎氏その
弟正七位勲五等山崎真氏遺跡の泯滅を憂ひ資を捐て碑
を建て之を表彰す予此挙を賛しその事由を叙するになん
明治四十五年四月十九日
宮内大臣従二位勲一等伯爵 渡邊千秋
神社前を後にすると
宗良親王御遺蹟の碑が建つ見張台跡にて遠望。
一之瀬神社を後にすると旧一之瀬小学校体育館の脇へ進み、
一之瀬城跡の境界を確認した。
以上でツアーは終了となった。
【一之瀬城跡について】
一之瀬城(東の城跡・西の城跡)は「一之瀬城跡を守る会」の尽力により度会町指定文化財(記念物:史跡)となり、今では自由に見学できるようになった。案内板や経路も整備され、案内がなくても訪ねることができる。多くの方に知っていただき、多くの方に訪れていただきたい。
【一之瀬神社獅子神楽について】
来年は2019年2月10日(日)に実施される。朝からは各地区の公民館等で宿番、その後は4地区が一之瀬神社に集合して宮番が舞われる。
脇出の宿番は、脇出公民館にて9時から、全地区が集まる宮番は一之瀬神社にておそらく11時半頃から開始されるだろう。(祭の開始時刻は前後するものなので、30分以上の余裕が必要だ。)