2019年10月27日(日) 第二部 まち歩き:河崎ふすま解体団による「ふすまの解体ショー&そこから出た古文書によるミステリーまち歩き」 (徒歩)
午前中には、河崎ふすま解体団による「ふすまの解体ショー&そこから出た古文書によるミステリーまち歩き」の第一部である「ふすまの解体ショー」が予定通り実施された。
第二部の「ミステリーまち歩き」では、ふすまの解体ショーで見つかった古文書をもとにアドリブ的に河崎の町をめぐる予定となっていた。
「ミステリーまち歩き」のスタート時刻である13時半になると河崎 川の駅前には10名ほどの参加者が集まっていた。
「ミステリーまち歩き」案内人は、午前中に実施された「ふすまの解体ショー」の講師であった千枝大志さんである。千枝さんは、まとめられた下張り文書の束から解体ショーの際に目星を付けていた古文書を選び出すと
まち歩きの開始となった。
まずはミステリーツアーの行き先を示す古文書の内容が紹介された。その文書には町名「南町」に続き多数の人名が記されていた。何かのリストのようだ。
私は、千枝さんが読み上げる古文書の内容を配布された資料に書き留めた。
その古文書には
次のように記されていたのだった。
南町
①辻村藤兵衛
②河村源八
③河村源右衛門
④奥野重右衛門(十右衛門)
⑤平田茂兵衛
⑥久保田久兵衛
⑦久三郎
?惣三郎
?市右衛門
⑧惣吉(宗吉)
⑨長五郎
⑩吉兵衛
⑪礒七
また、配布された資料は、河邊七種神社古文書の会により翻刻された「河崎南町絵図面」である。
見つかった古文書には先頭に「南町」の地名があり、読み上げられた人名を「河崎南町絵図面」にて探すと驚くほどに見つかるではないか。古文書に記された13名のなかで所在不明者は?惣三郎と?市右衛門の2人だけ。⑦久三郎は二ヶ所に同名が存在するので所在を特定はできないもののいずれかに当てはまるだろう。最後の⑪礒七についてはまち歩きを終えてから千枝さんが儀七ではないか、もしかすると「河崎南町絵図面」にある礒七だろうと。
これだけ人名が一致することから判断すると「ふすまの解体ショー」で見つかった古文書はこの絵図面が描かれた頃のものだろうと推定できる。(ここに描かれている御金会所の竣工が文化10年(1813)8月27日)
このように千枝さんが古文書の内容を読み上げた時点で、まち歩きマップが完成していたことになる。
ただし、解体で見つかった古文書だけでは「ミステリーまち歩き」は実現しなかった。絵図面の翻刻版があったからこそ成立したのである。このように複数の古文書や絵図が情報を共有しあいながら歴史の真相(深層)が明らかになっていく。このまち歩きが「ごめんなさい」解散にはならずに、成功へと導いてくれたのは「河邊七種神社古文書の会」の地道な活動のおかげでもある。本会は千枝さんの尽力により運営されているのだからなるべくしてなった結果でもある。
【参考】
- 古文書の会(2019.09.08)@河邊七種神社社務所 2019年09月08日
「行き先は決まった。さあ、出発だ!」
河崎 川の駅の駅舎を通り抜けると河崎本通りへ出て、伊勢河崎商人館の前を通り過ぎた。
さきほどに紹介した「河崎南町絵図面」以外の絵図面も資料として配付されたので南町へたどり着く途中でそれらの絵図面を見ながら・・・
この場所では絵図面上で現在地を特定する方法が説明された。ポイントは路地(世古)である。
一部の大きな道路は絵図面に存在しないが、路地に関してはほとんどが残されている。
また、こちらでは
瓦の家紋で明らかになった事実が紹介された。
さらに、こちらでは絵図面に記された名前が現代にも伝えられている事例が紹介された。
ツアー本番を前にして伊勢まちかど博物館でもある和具屋に立ち寄った。実はこちらの建物も最近に変化している。
【参考】
和具屋の倉庫の見学料は100円だが、100円では安すぎるほどに魅力的なものが積め込まれている。せひとも訪れてみては。
また、河崎のまち歩きについては過去の記録があるので、興味がある方はこちら。
【参考】
- 「古文書の会」のフィールドワーク、ブラッチェise ミニツアー パイロット版 宮後〜河崎1丁目(副題:伊勢山田廃寺編) 2016年07月10日
- ブラッチェiseミニツアー河崎ブラ夢中散歩(Season1 最終章) 2017年09月16日
ここからが、発見された古文書に関するミステリーまち歩きの本番である。
古文書に記されている人が住まっていたと思われる場所を巡った
【①辻村藤兵衛】
現在は、「ふすまの解体ショー&そこから出た古文書によるミステリーまち歩き」を主催する河崎ふすま解体団の団長である古本屋「ぽらん」となっている。
【⑤平田茂兵衛】
⑤平田茂兵衛 付近から河崎本通りを離れて路地へ入れば
【⑧惣吉(宗吉)、⑨長五郎、[⑦久三郎]】
絵図面では丁字型の袋小路となっている場所は環濠跡まで通り抜けていた。かつては、この路地上に⑨長五郎があり、その左側には⑧惣吉(宗吉)。今回は訪れなかったがその隣の路地には⑦久三郎。
環濠跡まで通り抜けたので、河崎環濠の名残である石垣も確認。
【参考】
- 河崎環濠痕跡巡りツアー(伊勢市河崎) 2016年06月18日
【②河村源八】
河崎の環濠跡から河崎本通りへ戻るとこちらの鬼瓦、(長)の文字に注目した。
この鬼瓦が掲げられた建物は「Cafeわっく」であり、井爪商店の建物をリノベーションした店舗である。
しかし、なぜに(長)? 千枝さんによると昭和10年代に井爪商店が岡村長四郎の建物を買い取ったとのこと。つまり、鬼側の(長)は長四郎を示し、当時からの建物であることを伝えている。これで絵地図上の位置が特定できた。左隣りが②河村源八である。
【⑥久保田久兵衛、③河村源右衛門】
さらに南側には⑥久保田久兵衛と③河村源右衛門。こちらは③河村源右衛門だったか?
その隣には、今も江戸時代の姓が残されている。
私が絵図面の写しを手にしていると町内会の副会長さんから声を掛けられた。「うちはどこかな?」
地図を示しながら説明すると昔話や土蔵の石垣に関する話でしばし盛り上がった。
先行していた皆さんを追いかけると庚申さんのところから路地へ入ると不動院付近まで来ていた。不動院の隣には絵図面が作成された年代特定の基準となった「御金会所」が建っていた。(今は更地)
(なお、ここへ来る途中に⑩吉兵衛を訪れていたのだろうが、私は確認できなかった。再訪時にでも確認しよう)
この場所では、絵図面の中に「榎本三右衛門」の名を確認し、「榎本」家はこの場所から表の通りへと転居したこと。このことは、番頭としての下積み時代には表の通りからは離れた場所にに住まい、実力が付いた時点で表へ出たことを示しているのではないか?と。
【⑦久三郎】
来た路地を戻ると左手に⑦久三郎を確認。
河崎表通りへ戻ると絵図面に「水通し」の文字を確認した。かつてはここから勢田川へと通じ、その先は産屋濱となっていた。
【④奥野重右衛門(十右衛門)】
最後に、④奥野重右衛門(十右衛門)を確認すると「ミステリーまち歩き」はエンディングを迎える。
そのために、河崎表通りを後にすると勢田川方向へ進み清浄坊橋の手前で左へ折れると
左岸を下流側へ。産屋濱付近を過ぎると
赤レンガ倉庫(油倉庫)に注目。皆さん興味深々だった。
【参考】
- 油蔵ほか榎本三右衛門邸見学(伊勢河崎まち歩きのオプショナルツアー) 2017年12月16日
その先には堤防から内側へと膨らんだ空き地がある。ここは船を回した場所である。ここは先に紹介したリンク「河崎環濠痕跡巡りツアー(伊勢市河崎)」にもある船回し場跡である。
そして、こちらがエンディングの場所。
かつては鹿海屋商店の蔵であったが、現在は「柚 CUCINA NATURALE~ゆず クッチーナ ナチュラーレ~」となっている。
そして、今回の「ふすま解体ショー」が実施されるきっかけとなった古文書がこちら。
この古文書は、土蔵のリノベーションの際に
千枝さんにレスキューされた襖から見つかったものだった。しかも下張りなかには「北川治郎兵衛」と記された多数の文書が見つかったそうだ。
この絵図面を見てもこの付近にその名を見つけることはできない。実は、この土蔵は河崎表通りに面して営業する播田屋の工場付近から移築されたもののようだ。土蔵の移築とともにそのまま移転された表具類。その当時に廃棄されていたら今回の「ミステリーまち歩き」は実現できなかった。
これも当時の人々が土蔵とともの建具類をも残してくれたおかげである。
最初は「ごめんさい」解散になってしまうのではないかと心配していた「ミステリーまち歩き」だが、蓋を開けてみたら大成功。これにて「ふすまの解体ショー&そこから出た古文書によるミステリーまち歩き」は終了となった。千枝さん、参加者の皆さん、お疲れ様でした。
千枝さんは生粋の案内人である。まち歩きを終えて帰る途中でも目に付いたものは紹介していた。
こちらは民家の屋根にのせられている瓦であるが、その側面には瓦師の名が刻されている。
伊勢
中西甚兵衛
一本木町
この瓦師が制作した作品は外宮勾玉池の畔に鎮座する茜社の茜牛天神にも奉納されている。
【参考】
- 瓦工 中西甚兵衛による土製黒色牛像(茜牛天神) 2017年05月20日
最後に、千枝さんが今までに実施したツアー「ブラッチェise」(古代から戦後までの歴史学、国文学、建築史学、民具学、民俗学など学際的知識や経験を駆使して実施するツアー)の記録を紹介して本記事を締めくくる。
【参考】