「ぶら☆やごと」〜本物の”八事”をさがす〜(中京大学大学院文学研究科歴史文化専攻「歴史資料の保存・活用研究II」受講生企画ツアー)

2018年12月15日(土) 「ぶら☆やごと」〜本物の”八事”をさがす〜(中京大学大学院文学研究科歴史文化専攻「歴史資料の保存・活用研究II」受講生企画ツアー) (電車、徒歩)

本日は、中京大学大学院文学研究科歴史文化専攻の「歴史資料の保存・活用研究II」受講生による企画ツアーが実施された。

「ぶら☆やごと」〜本物の”八事”をさがす〜
歴史資料の活用について実践的な活動として、中京大学の拠点《八事》の古地図や地籍図を活用したツアーを企画しました。一緒に本物の《八事》を探しに行きましょう!
日時:2018年12月15日(土)10:00〜12:30(小雨決行)
集合場所:八事駅 北改札口(10:00集合)
解散場所:塩釜口駅
参加費:無料
定員:25名(先着)
監修:千枝大志先生(中京大学非常勤講師)
企画:中京大学大学院文学研究科歴史文化専攻
大学院生 加藤壱弥・高橋みのり・森達也

 

この講座の講師は監修として名前があがっている千枝大志さんである。彼は自身の研究成果と経験をもとに実学としての歴史学「歴史応用学」を追求するため、古文書や古地図等の史料に基づいた歴史的な根拠のあるフィールドワーク(ツアー)を伊勢の地でブラッチェiseパイロット版と称して何度も実施してきた。

【参考】

 

本ツアーは「ブラッチェise」での成果を教育の場へ展開したものであり、3名の大学院生(加藤壱弥さん、高橋みのりさん、森達也さん)によるフィールドワークを活用した「歴史応用学」の実践となった。彼らは自分たちでテーマを決め、さまざまな資(史)料を集めるとともにフィールドワークにより決定的な結論を導き出すことに成功した。このツアーがその成果のお披露目の場となったのだった。彼らは今後もこのワクワク感を忘れずに個々のさまざまなテーマに対峙して行くことだろう。

なお、ツアーの実施にあたっては「最寄り駅を集合・解散場所にする」、「手軽に使えるトイレを確保する」など研究の本質とは全く関係がないけれどもツアーとして成立させるために重要なことも課題として設定されていた。

ここでは、彼らの自信に満ちた案内に導かれたツアーの概要を記録として残しておこう。

八事駅に参加者が集まると2班に別れての行動となった。各班は10名前後の構成である。

「ぶら☆やごと」〜本物の"八事"をさがす〜 スタート(八事駅)

「ぶら☆やごと」〜本物の”八事”をさがす〜 スタート(八事駅)

 

私は伊勢からの同行者とともに加藤壱弥さんが案内役をつとめる2班に割り当てられた。

まずは加藤さんより出発前に本ツアーのねらいと概要が説明された。

「ぶら☆やごと」〜本物の"八事"をさがす〜 スタート(八事駅)

「ぶら☆やごと」〜本物の”八事”をさがす〜 スタート(八事駅)

 

本ツアーのねらいは、ここにもあるように

「ぶら☆やごと」〜本物の"八事"をさがす〜

「ぶら☆やごと」〜本物の”八事”をさがす〜

 

●自分たちが中京大学付近への史的興味から今まで実施されていない「八事」のまちあるきを実施する。

●現在は新興住宅街となっている八事について「天保の村絵図」を手がかりに江戸時代の寺社を中心とした村の様相を推定、復元する。

●江戸時代の「八事」と現在の「八事」の空間を考える。

と設定されていた。

また、今でも名古屋駅から約30分はかかる八事は、19世紀初め頃の尾張国全図によれば名古屋の中心からはずれに位置し、軍事的拠点との立ち位置にあったと考えられ、100軒500人が住む村だった。

 

現在の地図と天保12年村絵図、その他資料が手渡され地上へ出ると、出発点は飯田街道の八事交差点。この付近には中京大学などの大学も点在し賑やかな街となっている。

古絵図の写しと八事交差点(飯田街道)

古絵図の写しと八事交差点(飯田街道)

 

尾張名所図絵には「八事山興正律寺遍照院八事村にあり」との記述とともに壮大に展開された八事興正寺の姿が描かれている。しかしこれらと時を同じくして発行された天保12年村絵図(八事村)には八事興正寺の名を見つけることができない。

愛知県図書館(貴重和本デジタルライブラリー)では尾張名所図絵が公開されており、次のリンクの5巻には「八事村」、「八事興正寺」、「音聞山」などが紹介されている。

【参考】

 

なお、天保12年村絵図には赤い線が八事村の区画を囲うように描かれており、八事興正寺があるべき場所は赤線囲いの外側となっている。

 

八事村の全域を歩けば天保12年村絵図に八事興正寺が描かれない理由が見つけられるのではないかと絵図上の位置を同定しながら歩き始めた。

 

八事交差点に建つこの案内板「八事八つの坂の街」の図が示すようにこのあたりは起伏の激しい場所である。この辻を中心に参道坂、大学坂、山手坂、石屋坂、塩釜坂、音聞坂、天道坂、雲雀坂が存在する。本ツアーでは音聞坂へ。

「八事八つの坂の街」の図

「八事八つの坂の街」の図

 

八事南交差点へ進むと

八事南交差点の案内板と八事交差点

八事南交差点の案内板と八事交差点

 

天道坂と音聞坂の分岐にて

音聞坂と天道坂の分岐

音聞坂と天道坂の分岐

 

こちらの道標を確認した。これは天道山大門の道標でこの先の右手には天道山高照寺。なお、この道標を建てたのは「伊藤萬蔵」氏。有名な篤志家で数多くの道標等を建立しているそうだ。ネット検索すればその功績は数知れない。

天道山大門の道標(音聞坂と天道坂の分岐)

天道山大門の道標(音聞坂と天道坂の分岐)

 

道標を後にして音聞坂を進むと

音聞坂(市バス 八事 バス停付近)

音聞坂(市バス 八事 バス停付近)

 

道路の反対側には「地蔵道」なる石碑が建ち、その隣にはまたまた伊藤萬蔵の名を見つけた。

地蔵道の石碑と伊藤萬蔵による道標(音聞坂)

地蔵道の石碑と伊藤萬蔵による道標(音聞坂)

 

市バス 八事 バス停を過ぎると

市バス 八事 バス停

市バス 八事 バス停

 

緩やかな坂道をてくてくと。歩道にはこのような銘板が設置されている。

歩道に設置されていた「音聞坂」の銘板

歩道に設置されていた「音聞坂」の銘板

 

ほどなく、市バス 弥生ケ岡 バス停にたどり着く。この先には十字路があり直進は上り坂、左右は下り坂となっている。

市バス 弥生ケ岡 バス停

市バス 弥生ケ岡 バス停

 

バス停付近には土地柄を如実に表すほどに豪華な住宅が建っている。

音聞坂にて(市バス 弥生ケ岡 バス停付近)

音聞坂にて(市バス 弥生ケ岡 バス停付近)

 

ここが十字路で左へとカーブする坂道を進む。

市バス 弥生ケ岡 バス停付近の分岐

市バス 弥生ケ岡 バス停付近の分岐

 

伊勢からの同行者はコーヒーショップの豊かな香りに誘われ、店先に置かれたメニューに魅入ってしまった。

市バス 弥生ケ岡 バス停付近の分岐にて

市バス 弥生ケ岡 バス停付近の分岐にて

 

十字路を左へ進むとこの坂を一気に下った。

市バス 弥生ケ岡 〜 八事音聞山 バス停

市バス 弥生ケ岡 〜 八事音聞山 バス停

 

この辺りは高級住宅街の様相を呈しているが、すでに廃墟となっている建物もちらほら。

市バス 弥生ケ岡 〜 八事音聞山 バス停

市バス 弥生ケ岡 〜 八事音聞山 バス停

 

下って来た坂道を振り返ってパチリ。

市バス 弥生ケ岡 〜 八事音聞山 バス停

市バス 弥生ケ岡 〜 八事音聞山 バス停

 

なお、右側にはこのような急坂の路地が点在する。先の十字路を直進した辺りへ通じるのだろうか。

市バス 弥生ケ岡 〜 八事音聞山 バス停

市バス 弥生ケ岡 〜 八事音聞山 バス停

 

八事音聞山 バス停へ到着すると第一の目的地が近づいてきた。

市バス 八事音聞山 バス停

市バス 八事音聞山 バス停

 

バス停付近で左右を眺めると右も上り坂、

市バス 八事音聞山 バス停付近

市バス 八事音聞山 バス停付近

 

左も高台と左右は山に囲まれている。ここでバス停の名前を再確認すると「八事音聞山」。

市バス 八事音聞山 バス停付近

市バス 八事音聞山 バス停付近

 

道路を左側へ横断するとこの案内板は見つかった。第一の目的地はここにある「佛地院」だった。

佛地院入口付近(名古屋市天白区音聞山)

佛地院入口付近(名古屋市天白区音聞山)

 

路地へ入るとその先に佛地院がある。現在地を古絵図上に同定しようと進んで来たがどこにいるのか全くわからない。ところでなぜに佛地院を訪れたのか? 実はこれが江戸時代の八事を考える上でとても重要なポイントであったのだった。佛地院は天保12年村絵図にも示されているが、大正5年に移転していてここは本来の場所とは異なっている。佛地院は古絵図上にその位置を同定できないのに、なぜにこの寺が重要なのか? 古絵図上で現在位置を同定するためには川や池、道などで変化していないものを見つけ出すしかない。

佛地院(名古屋市天白区音聞山)

佛地院(名古屋市天白区音聞山)

 

小休止を終えると山門のある正面(向かい側には八事東小学校がある)の参道から

佛地院(名古屋市天白区音聞山)

佛地院(名古屋市天白区音聞山)

 

佛地院を後にした。

佛地院(名古屋市天白区音聞山)

佛地院(名古屋市天白区音聞山)

 

紅葉の白壁を左に見ながら東方向へ進むと

佛地院付近(名古屋市天白区音聞山)

佛地院付近(名古屋市天白区音聞山)

 

右下がりの坂道に突き当たる。まずは左へ進む(坂を登る)と

佛地院付近(名古屋市天白区音聞山)

佛地院付近(名古屋市天白区音聞山)

 

こんな所で説明が・・・。実はこのフェンスの向こう側には

佛地院付近(名古屋市天白区音聞山)

佛地院付近(名古屋市天白区音聞山)

 

大きな池が存在していたのだった。つまり、この池を古絵図上で同定できれば現在地が明らかになる?

佛地院付近の池(名古屋市天白区音聞山)

佛地院付近の池(名古屋市天白区音聞山)

 

ところが、古絵図のそれらしい場所には3つの池が描かれている。これだけの情報ではどこの池なのか特定できない。池を眺めた場所で折り返すと来た坂道を下った。

八事東小学校への坂道(名古屋市天白区音聞山)

八事東小学校への坂道(名古屋市天白区音聞山)

 

坂を下りきった辺りには、八事東小学校から道路の向かい側にあるプールへと歩道橋が架けられている。

八事東小学校とプールをつなぐ歩道橋

八事東小学校とプールをつなぐ歩道橋

 

この歩道橋の先には「消防水利」の標識があり、

八事東小学校とプールをつなぐ歩道橋

八事東小学校とプールをつなぐ歩道橋

 

その下には採水口(給水用)が設置されている。

八事東小学校のプール付近にある消防水利、採水口(給水用)

八事東小学校のプール付近にある消防水利、採水口(給水用)

 

ツアーの主催者である加藤さん達は調査でこの場所を訪れた際にこの採水口に気付き「坂の下、水が集まる場所、池?」との連想から「この付近にも池があった」との仮説を立てた。そして、その仮説には拍手喝采の結果が待っていたのだった。

彼らはこの仮説をいかに検証したのか?

彼らは名古屋市政資料館にてこの付近の地籍図を調べ、卍(佛地院)に隣接する学校(八事東小学校)の「地番135」は元溜池であったこと、さらにはこの周辺には溜池が3ヶ所に点在していたことを突き止めた。つまり、この場所は天保12年村絵図に描かれた3つの池の場所に同定されたのだった。(このことを突き止めた瞬間の彼らの喜びは一入だったことだろう。)

 これにより、天保12年村絵図上での現在地が明らかとなった。八事東小学校付近から東西に続くこの道路沿いには多数の神社仏閣が集まっていたことになる。当時の八事の中心地はこの辺りだったのではないか。この通りがメインストリート!

 

かつてのメインストリートを東へ

八事東小学校付近から東方向へ

八事東小学校付近から東方向へ

 

200mほど進むと左側に鳥居が望めた。その方向へ進むと

八事神社への参道

八事神社への参道

 

こちらには八事神社が鎮座している。その御由緒を確認すると

八事神社の御由緒(名古屋市天白区御幸山)

八事神社の御由緒(名古屋市天白区御幸山)

 

次の通りだった。

八事神社
創建は詳らかではないが、室町時代には既に村民の崇敬が篤かったことが記録から明らかである。
明治四十三年、現地の八幡社に壱之御前社 高峯神社を合祀、社名を八事神社と改称。さらに、山神社、富士社、白山社を境内に移し祀った。
大正十三年、祝詞殿を建設。昭和十年に愛知縣招魂社(現愛知縣護國神社)の拝殿を移築した。

【参考】

 

急な階段を登り、お参りを終えてから

八事神社(名古屋市天白区御幸山)

八事神社(名古屋市天白区御幸山)

 

社務所との広い空間にて。

八事神社(名古屋市天白区御幸山)

八事神社(名古屋市天白区御幸山)

 

ここには「音聞山勝地」の石碑と歌碑が建てられている。先に紹介した尾張名所図絵では「音聞山」も紹介されている。かつては風光明媚な場所だったのだろう。

音聞山勝地の石碑と歌碑ほか(八事神社)

音聞山勝地の石碑と歌碑ほか(八事神社)

 

八事神社は一般的な神社と同様に南面している。南を見ながら先の石段を下ると

南面している八事神社(名古屋市天白区御幸山)

南面している八事神社(名古屋市天白区御幸山)

 

その前の路地を左(東)方向へ進んだ。

八事神社前の路地を東方向へ(名古屋市天白区御幸山)

八事神社前の路地を東方向へ(名古屋市天白区御幸山)

 

民家の間をすり抜けるように進むと

八事神社前の路地を東方向へ(名古屋市天白区御幸山)

八事神社前の路地を東方向へ(名古屋市天白区御幸山)

 

「御幸山」の地名板が掲げられた場所で坂道に突き当たった。この坂道を左、

「御幸山」の地名板(名古屋市天白区御幸山)

「御幸山」の地名板(名古屋市天白区御幸山)

 

登る方向へ進むと

塩竈神社への坂道(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社への坂道(名古屋市天白区御幸山)

 

ほどなく塩竈神社の裏参道入口にたどり着く。

塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

 

塩竈神社は、弘化年間(1844 ~ 47)に天白村の山田善兵衛が、宮城県の塩竈神社から分霊を賜り、奉祀したことに始まるそうだ。

【参考】

 

参道入口付近は、道路の両側に同様な板塀が建てられ独特な雰囲気を醸し出していた。

塩竈神社付近(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社付近(名古屋市天白区御幸山)

 

先ほどの鳥居をくぐり階段を進むと

塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

 

板塀の向こうの風景が望めた。立派なお宅だ。

塩竈神社からの風景(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社からの風景(名古屋市天白区御幸山)

 

階段をさらに進むとその途中には

白龍神社、塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

白龍神社、塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

 

白龍神社がまつられ・・・

白龍神社、塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

白龍神社、塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

 

これらの狛犬に惹かれてしまった。

白龍神社の狛犬、塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

白龍神社の狛犬、塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

 

白龍神社の狛犬、塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

白龍神社の狛犬、塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

 

一人だけ遅れを取ってしまったので、走らないように急ぎ足で・・・。山門をくぐると

塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

 

南中した太陽が正面に。鳥居は東を向いていた。

八事神社と隣接するように建てられた塩竈神社はその参道が重ならないように東向きに建てられたようだ。そのために地下鉄の塩釜口駅の設置に至る発展が得られた。

東面している塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

東面している塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)

 

最終目的地である塩竈神社にてツアーは終了となり、次のようにまとめられた。

塩竈神社にてツアーのまとめ(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社にてツアーのまとめ(名古屋市天白区御幸山)

 

まとめ

▷ 「塩釜神社」の勧請とそこから広がった「塩釜口」(1882)

▷ 「八事遊園地」等の形成、再開発(1912)

▷ 第一回高校野球の開催(1973)

▷ 現イオン八事店の開業(1973)

▷ 地下鉄鶴舞線(1977)名城線(2004)の開通

 

▷ 天保の絵図では飯田街道を北端とした八事村が描かれている
「元八事」の名が示すもの

 

まとめ2

▷天保の村絵図(興正寺は描かれていない)→藩に提出した公式のもの
当時の行政的空間を示している!!

▷弘化の村絵図(興正寺が描かれている)→提出されていない非公式のもの
当時の私的空間を示している!?

 

本物の「八事」は八事神社のふもとをメインストリートとした現「元八事」一帯に広がる地域

 

尾張名所図絵での八事興正寺の記述と天保12年村絵図の相違から始まった本研究、興味深い結論を得て終了となったが、まだまだ奥が深く調べればどんどん興味のネタが溢れ出るだろう。

彼らはこの後も研究を続けるのだろうか?

 

私は明快な結論にワクワクしながら塩竈神社を後にした。表の参道から坂道を下ると先ほどの坂道と合流していた。この坂道を右に見ながら

塩竈神社付近の坂道(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社付近の坂道(名古屋市天白区御幸山)

 

さらに坂を下ると

塩竈神社付近の坂道(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社付近の坂道(名古屋市天白区御幸山)

 

この坂の傾斜がいかに急であるかは路面が物語っていた。御幸山(音聞山)。

塩竈神社付近の坂道(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社付近の坂道(名古屋市天白区御幸山)

 

路面の変化も楽しみながら坂を下ると

塩竈神社付近の坂道(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社付近の坂道(名古屋市天白区御幸山)

 

かつてのメインストリートと合流した。

塩竈神社付近の坂道(名古屋市天白区御幸山)

塩竈神社付近の坂道(名古屋市天白区御幸山)

 

八事東小学校の方向を眺めると神社仏閣が乱立(?)していた頃の様子を想像してみた。

八事東小学校付近から続くかつてのメインストリート(名古屋市天白区元八事・御幸山)

八事東小学校付近から続くかつてのメインストリート(名古屋市天白区元八事・御幸山)

 

本ツアーの主催者である加藤壱弥さん・高橋みのりさん・森達也さん、ならびに監修された千枝大志さんありがとうございました。お疲れさまでした。とても楽しませていただきました。近場であれば何度でも足を運びたい場所を見つけてしまった気分です。

また、参加された皆さん、お疲れさまでした。またどこかでお会いしましょう。本ツアーの第二弾で会えればいいですね。

 

【追記】

帰宅後に調べていたらネットで次の論文を見つけた。ここには「川名村八事山興正寺」と記されている。

 

天保12年村絵図に川名村は描かれているのだろうか? 疑問は尽きない。

 

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