さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)(泣)

2019年04月07日(日) さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)(泣) (車、徒歩)

本日は千枝大志(同朋大学仏教文化研究所所員)さんと同行者4名で、まずは旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)を訪れた。

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

私たち同行者が丸岡家の当主である丸岡正之さんからご説明をいただく間、千枝さんは某TV局による山田羽書に関する取材対応で大忙しだった。

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

【参考】

 

現存する長屋門付近での説明を終えるとこちらも現存する唯一の御師館内へ、

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

この杉板は屋号(ビジネスネーム)を記した看板でお客(檀家)と出会うための道具です。御師の手代は必ずお客と出会えるように桜の渡しを渡った中川原にてこの大きな目立つ看板を立てて待っていました。その様子は伊勢参宮名所圖會 四に描かれています。(それはまさに現在の空港での光景を思わせる。)これも時代の先取りのひとつです。御師と檀家は専属の契約であるためお客は担当の御師に出会わない限り泊まることすらできないのです。
御師は全国各地にある明確な縄張りの中にそれぞれが檀家を持っていました。しかし縄張りを侵して檀家論争となることも多く、山田(外宮の門前町)を管理する山田三方が裁定しました。それでも解決できない場合は山田奉行に委ねられました。なお、この縄張り(檀家)を担保に金を借りたりそれらは権利として売買されることもありました。それらは証文(紙)により取引されました。
また、檀家の名簿は毎年作り直されましたが、今のようにコンピュータの無い時代だったので一ヶ所で管理できない大規模な御師は現地に出張所を設置したり、下請けにまかせていました。また、お客のほとんどは雪解けから田植えまでの期間に集中するため、高向あたりからパート従業員を雇っていました。

基本コースは三泊四日で次の行程でした。
1日目:二見にて禊(食事の準備等のための時間稼ぎ)→ 御師館
2日目:外宮へ散策 → 御神楽(御師館にて) → 正装にて外宮参拝 → 御師館
3日目:内宮 → 朝熊山 → 古市
4日目:帰路へ、または 熊野へ など

さらに、五泊六日のコースでは伊雜宮へも参拝し、行きは朝熊山から山伏峠を越えて五知経由、帰りは逢坂峠を越えて現在の伊勢道路を戻って来た。

 

こんな話を聞いていると山伏峠を越えて五知へ下ったことや逢坂峠の途中にある猿田彦森を訪れたことを思い出した。

【参考】

 

続いて、こちらは食に関わるもので四方から調理できる大きなまな板。

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

ここで供される食事はこのような三膳の構成であり

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

朱塗り(紀州塗)の器が使用されていた。これは当時のものである。

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

この山田には参詣者だけでなく外から逃げてきた人も多く、さまざまなDNAが混ざり合い優秀な人材が輩出されたのでしょう。そのDNAは今も残されているはずです。
また、御師が全国に構築した人的ネットワークを活用した仕組み、さらには日本最古の紙幣とされる山田羽書の誕生にも繋がった活動は、現在の仕組みの先取りです。

 

このような御師の活動により全国から人々とともに大金がもたらされた山田は、かつて江戸や大坂などの大都市に次ぐ都市であるとされた。千枝さんによれば山田のように成熟してから地域を広げた都市は珍しく、今後も研究に値するそうだ。

しかし、現実は・・・。明治四年に師職(御師)制度が廃止されると、御師が構築した全国に広がるネットワークやそれらを活用したノウハウなど有益な資源は活用されることも無く葬りさられた。その後、この地は平凡な田舎町へと成り下がってしまったのだった。

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

こんな平凡な田舎町である現在の伊勢に御師が活躍した時代を取り戻すためには、その当時を振り返れるモノが必要である。かつては数百を越えた御師館だったが、残念ながら残るは丸岡宗大夫邸のみとなってしまった。丸岡宗大夫邸の「長屋門及び築地塀」および「主屋」はそれぞれが登録有形文化財となっている。

登録有形文化財 第24-0202〜0203号である旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

登録有形文化財 第24-0202〜0203号である旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

【参考】

 

しかしながら、現状はこのように以前にも増して傷みが激しくなってしまった。

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

さらに傷みが激しくなっていた旧御師丸岡宗大夫邸(伊勢市宮町)

 

さらに、今回のTV取材に際し資料として提供しようとしていた古文書(戦国時代の証文)が盗難被害にあっていたことが発覚した。建物だけでなく、史料の安全も確保できない状況にある。

このように、今の伊勢では、一時期に隆盛を極めた伊勢 山田を作り上げた御師の記憶すらもが消されそうな状況にある。このように伊勢の再起にとっても重要である御師を知ることができる歴史遺産。個人の力だけでは守りきれない。歴史・文化を疎かにする伊勢市はどこへ向かっているのだろう。

 

ガンバレ、伊勢市!

 

【参考】

 

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