(続)残念ながら、甫蔵主池付近の六字名号碑は明治の建立

2018年09月16日(日) (続)残念ながら、甫蔵主池付近の六字名号碑は明治の建立 (徒歩)

以前に次の話題の記事を投稿した。

【参考】

 

遅ればせながら地元の御薗村誌を読み始めたところ次の内容を見つけた。

甫蔵主(ほとす)川跡
長屋区の南方、伊勢市一之木五丁目と境界をなすところに溜池があるが、この池はその昔の甫蔵主川の名残である。「長屋区の南彊一之木町界ニアリ、宮川支流ノ一部残存シテ池ヲナシ、其下流檜尻川トナル、本区地先ニ属スル水面延長三百間」(『度会郡誌草稿』大正十二年=1923)とあり、往古、高向村の西南渡屋口から一分流をなしていた北宮河のほぼ中央部にあたる所であった。
ほとす川の名の由来については、『神境紀伝』(宝永七年=1710刊)に、「法蔵主川は、法蔵主と言ふ法師の領分より名付けしにや、今この辺を領する家に、法蔵主の仏具と言ふ物ありき、見れば天台真言の仏具にて、禅家の具にはあらず、法蔵主は禅家の名なり。其の外の由緒を不知、また法蔵主の事も太古の儀には有るべからず」と誌(しる)されていて、禅宗派法師の名前に由来することを述べている。甫蔵主川の付近は、松林が茂り雑木林が続く寂しい場所であったようで、近世期には深淵のよどみをつくる河であった。安政三年(1856)三月、山田奉行同心の市中見回り日記には、

三月八日、甫蔵主川ニ相対死(注=心中のこと)有之(これあり)、女ハ大世古町新道、尾張屋助八奉公人まつ 二十歳、男ハ浦口町堤世古、藤右衛門ニ罷在掛リ人藤吉 二十二歳、甫蔵主橋ゟ(より)十間斗(ばかり)上手水中ニ抱合相果テ居候

とあり、若い男女の心中投身事件が記録される。今日に溜池からは想像もつかないほどである。明治二十四年(1891)八月、高向村西方の渡屋口がせき止められて以来、北宮河跡の荒蕪(こうぶ)地は、次第に開墾されて変貌していくことになった、特に大正十年代に御薗村各区で行われた耕地区画整備工事のころに、高向・長屋両区でも施行され、ほとす川近傍の様相も現行に見る形勢となった。
今日、池畔の一本松の根元には、工区整備で掘り出されたものか、数基の墓碑(天文ニ=1533銘、天正十九年=1591年銘)が放置されていて、同池東端の路傍には「南無阿弥陀仏」の六字銘号の供養碑が建立されている。これは、明治二十七年(1894)正月、一之木町綿屋新九郎、神社町大府屋九衛門が造立したものである。寛文九年(1669)七月、時の山田奉行桑山丹後守貞政は、山田領の罪人処刑場を、古市の小目野から甫蔵主川の河原敷に移した。現行の六字名号碑が建つ場所より南方辺りに比定される。延宝四年(1676)五月十八日。山田領中の寺院法僧が打ちそろって、ほとす川原に下りて読経誦唱(どきょうずしょう)し供養会(え)を催した(『万聞書』)。同書によれば、この法要はこのころ山田近在の人々が多く死ぬことあり、弔いのために行われたと誌している。

(御薗村誌のpp.23-24より引用)

 

興味深い内容だったので、新しいシューズの慣らしを兼ね朝から自宅周辺を散策しがてら現地を訪れた。車道からこの細い道へ進むと

整備された甫蔵主池へ(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

整備された甫蔵主池へ(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

 

最近、整備された甫蔵主池の辺りへたどり着く。

整備された甫蔵主池(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

整備された甫蔵主池(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

 

ポンプ場(?)付近からさらに先へ進むと

整備された甫蔵主池(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

整備された甫蔵主池(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

 

甫蔵主池の西側、京勢ビジネス専門学校の隣にはイチョウの木の下に「無縁法界塔」が建てられその隣には石像遺物が並べられていた。

整備された甫蔵主池の隅に集められた石像遺物(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

整備された甫蔵主池の隅に集められた石像遺物(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

 

この付近を清掃されていた女性にお話を伺ったところ、

先程のポンプ場(?)付近からこの場所までは道もないほどに草だらけだった。整備の際に、これらの石碑が集められた。これらを建てる前および建てた後にも僧侶により供養された。この木は枝を切っては行けないと工事業者に言われた。

とのことだった。

 

ここにある石像遺物のなかで年代らしきものが刻されているのはこちら(宝□)と

整備された甫蔵主池の隅に集められた石像遺物(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

整備された甫蔵主池の隅に集められた石像遺物(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

 

この手水石(正保(1644〜1647))。

整備された甫蔵主池の隅に集められた石像遺物(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

整備された甫蔵主池の隅に集められた石像遺物(伊勢市一之木と御薗町長屋の境界付近)

 

山田領の罪人処刑場がこの場所へ移転されたのが寛文九年(1669)七月なので、正保と刻された手水石はそれ以前から残されているものだろう。罪人処刑場が移される前にも墓所のような存在だったのだろうか?

今となっては数基の墓碑(天文ニ=1533銘、天正十九年=1591年銘)が放置されていたとされる一本松の姿もない。

整備された甫蔵主池(伊勢市一之木)

整備された甫蔵主池(伊勢市一之木)

 

甫蔵主池を離れ、車道の反対側に建つ六字名号碑へ近づくとパチリ。今回の話はこの石像遺物に始まっている。

甫蔵主池付近の六字名号碑(伊勢市一之木)

甫蔵主池付近の六字名号碑(伊勢市一之木)

 

その背面から甫蔵主池とともにパチリ。するとその背面に刻された

六字名号碑と甫蔵主池(伊勢市一之木)

六字名号碑と甫蔵主池(伊勢市一之木)

 

明治廿七年一月とおふたり(綿屋新九郎および大府屋九衛門)の名を確認することができた。

 

この六字名号碑がなぜに建てられたのかについては明らかではないが、「宮川夜話草巻之一」の尾上坂の條から次の内容から

(前略)・・・地獄谷という。されどそれは上古のことにして近頃慶安寛文まではこの山とめのが池という所死刑場なりしが桑山君下知として甫蔵主川という所へ移転せられ・・・(後略)

もしかすると罪人処刑場はこの辺りに移転されたのではないだろうか? の解は得られたようだ。

 

ただし、罪人処刑場が移転される前の状態など、新たなる疑問が生じてしまった。

疑問と解決の繰り返しである。

 

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