2019年06月29日(土) 涵翠池付近で見かけた道標と経塚顕彰の辞(多気郡多気町相可) (車、徒歩)
【キタヰの妻】と奥伊勢フォレストピアでランチを終えると何もしたくないほどにお腹いっぱいになったので、寄り道もせずに帰途に着いた。ところが車を走らせているとお腹も落ち着き、寄り道虫が疼き出した。
【キタヰの妻】が「近長谷寺」の案内板に気づき「きん、なに」と発したので、「あれは長谷にある きんちょうこくじ、長谷寺の長谷と書いてちょうこくじと読む」ことを説明した。
「近長谷寺」から思い出した「長谷」のキーワードから、丹生寺神宮寺の回廊と同様に2017年の台風21号で被害を受けた長谷の車田を連想した。車田には何度も訪れたことがあるので気になり、近長谷寺を目指し多気郡多気町長谷へ向かった。
ところが長谷の車田も近長谷寺へと続く林道もいまだ工事が続けられていた。その状況に唖然とした私達は何もせずに長谷を後にするしかなかった。(早期の復旧を願う。)
長谷を後して車を走らせているとのびのびパーク天啓に隣接する涵翠池付近で
こちらの道標を見かけた。和歌山別街道とは離れた場所だが、左右それぞれの方向へ進むと和歌山別街道へ到るのだろう。
この道標を過ぎてさらに進むと
この案内板の向かい側に
経冢之碑と刻された石柱を見つけた。
石柱の脇には次の説明板。
経塚顕彰の辞
この経塚は、佐田林庵翁が教務の余暇に白石を採集し一石に一字を書し、法華経八巻を写したが、その石の数無慮六万九千三百八十余個、これを寛保元年二月(1741年)に始めて翌二年六月に書写を終った。依って衆僧を講じて供養しこれを、この蓮花峯の上に埋めた。
ここの碑文は天台宗眞盛派本山西教寺第二十二世管長眞如上人の撰文となりその書は、津藩士書家森内其章(享和元年九月二日没(1802年))の揮毫により宝暦十年八月(1760年)建碑される。
佐田林庵翁は、通称を吉左衛門、諱は道倹、字は致恭、号を鷦林翁又、栽松堂培之と呼んだ。その家系は最も古く医を以て業とし、書を能くし、詩歌文章に巧みであった。かつて禅門に入り老後牟山の傍らに小庵を結び隠遁して俗塵を避け正山隠士と称した。宝暦四年八月(1754年)七十八歳をもって没した。
今般里人相はかつてその謂をとどめ、相鹿古事彙纂に遺る一首を添えて経塚顕彰碑の詞にかえる。積のこすいさをのかつはじら石に
法の御文をかきうすめけん 広淵昭和五十九年閏甲子歳次仲呂望日
相可第一区
この高台が蓮花峯だろうか? 案内板の脇に続く階段を登ると
こんな水平道の奥には
腰位置よりも高く草が茂る奥に先程の説明板と同じ文章が記された説明板が立ち、
その奥に石柱が望めた。草を漕ぐ気力は無かったので、望遠にてパチリ。草のない時期に機会があれば近くで拝見しよう。
軟弱な私は視界が開ける所まで戻ると涵翠池越しにのびのびパーク天啓を眺めた。少しでも高度を上げれば視界が変わる。(歩道橋好きな私には楽しい!)
道路脇に立てられた案内板まで戻ると穴掘り道具に気づいた。何に使われたのだろう? 付近に穴なんて無い???
最近、お気に入りのNTT識別標で名前を確認すると「天啓支30」となっていた。
暑い中、車のなかで待たせた【キタヰの妻】にお礼を述べるとあらためて車を走らせた。