2019年04月07日(日) 志宝屋神社(豊受大神宮 末社)前の寿し桶と第二湊橋付近の大塩屋跡を思いて(伊勢市大湊) (車、徒歩)
千枝大志(同朋大学仏教文化研究所所員)さんとの巡りで続いて訪れたのは大湊の志宝屋神社(豊受大神宮 末社)。
こちらを訪れた理由は、先に訪れた山田奉行所記念館にて展示されているこの絵図にあった。
その理由を千枝さんは次のように語った。
かつて神宮に御塩を納めていた大塩屋御薗は大湊周辺にあったとされているが、その所在地については複数の候補が示され確定していなかった。しかし、この絵図には「大塩屋跡」の文字が描かれており、その所在地が明らかになった。
また、山田奉行所記念館ではこの絵図に、次の概説が添えられていた。
「立合誓断之絵図」概説
この絵図面は、今から二百九十年前の享保五年(1720)十二月、第十九代山田奉行・黒川丹波守が領境訴訟に対して、絵図面を作成させ、その表絵図面に裁定線を朱引し、書き込み、尚且つその絵図面裏に左の床の間に掲げる訴訟裁定文を『裏書』し、奉行のお墨付け「丹波守」を署名捺印したものである。
訴訟の当事者は、大湊年寄・馬瀬村年寄・二見庄村喜多井甚四郎の三者であり、訴訟の場所は、今日、大湊地区領内・中須新田といわれる所。領境争いの原因などは、掲出の『裏書』文の解説にある通りである。
絵図面には、奉行所の所在した小林村の東北端と大湊領南西端に架かる大湊橋(御祓橋と称されていた)その橋から南へ、入り江があり、奉行所船蔵地につづく川筋が描かれている。今日の宮川下流域上下水浄化施設場・下野工業団地のある徳田新田や禿松(まむろまつ)新田の土地は、浮き洲状態に書かれている。
大湊全体は概略されていて松林多い濱として描かれる。下野村・馬瀬村は陸の孤島のごとく、東西南北を川筋に取り囲まれていたことが窺い知れる絵図である。土手が描かれているが、その一部は、昭和二十年代まで残存していたが、終戦後に実施された土地改良事業にて今日に見る平坦な田畑と化した。
下中須・江古(えご)・古社(ふりやしろ)などの小字地名は、大湊や馬瀬両地区に今も残されている。二見庄村の喜多井甚四郎が中須一円の荒地を買得したるは、旧古にこの地一帯は、「大塩屋御薗」と称されて、塩田地帯であったところ故に、塩田の再生を図るところであっただろう。この絵図面の所在にて始めて喜多井甚四郎の事業計画が知れた絵図面である。(山田奉行所記念館にて)
実は私も大塩屋御園について興味を抱いていた。
【参考】
- 塩を感じるお伊勢さん125社まいり 神社・大湊めぐり 2017年05月07日
千枝さんによれば
この絵図から推定すると、その中心は今の第二湊橋付近だろう
とのこと。
志宝屋神社の社叢を背にして大湊川の堤防に立つと第二湊橋を遠望した。この一帯に塩田が広がっていたのだろう。(まぶたを閉じよう!)
続いては、第二大湊を背にして大湊川の堤防を西方向へ移動。
宮川と合流する位置にたどり着くと、ここには橋脚が残されている。ここには大湊への唯一の架け橋であった御祓橋が架かっていた。今はコンクリート製の橋脚跡であるが、先ほどの絵図には木橋の様相が描かれている。
【参考】
- 「勢州大湊古記」に触発されて歩いた大湊(伊勢市大湊町) 2018年08月26日
そして、こちらはあの社叢に囲まれた志宝屋神社。
お参りを終え参道から鳥居越しに見えるは、かつて寿し桶と呼ばれた場所。文字通り、寿し桶の形状をしているようで、塩田から田畑になった。
志宝屋神社の脇に今も残される水路は
当時を物語るものだろうか?
そんなことを夢想しながらこの場所を離れると鷲ヶ浜へ向かった。