講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久@磯部生涯学習学センター多目的ホール

2019年12月15日(日) 講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久@磯部生涯学習学センター多目的ホール (車、徒歩)

磯部生涯学習学センター多目的ホールでは、星埜由久さんによる講演会「伊能忠敬の志摩測量」が開催された。

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

伊勢古文書同好会では、今まさに本講演テーマである「伊能忠敬の志摩測量」に関する古文書「測量日記」を読んでいる。そのため、志摩での測量に関するさまざまなエピソードを期待して本講演に臨んだ。

【参考】

 

講演会場は、磯部生涯学習学センター(志摩市歴史民俗資料館)の二階にある

磯部生涯学習学センター

磯部生涯学習学センター

 

多目的ホール。受付にて講演中の写真撮影、WEB掲載に関する許可を得たのでこちらで紹介できた。

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

定刻になると志摩市長による挨拶の後、

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

星埜由久さんが紹介された。

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

受付で配付された資料には次のタイトルが並んでいた。

  • 伊能忠敬の志摩測量(表紙)
  • 伊能忠敬略年譜
  • 伊能忠敬の全国測量
  • 測量作業の一日
  • 伊能測量の特徴
  • 伊能測量の成果
  • 伊能図の表現
  • 富士山の高さ測量
  • その後の伊能図
  • 没後の顕彰等
  • 伊能測量成功の原動力

 

講演が開始されるとまずは歴史上で特異な人物であることを説明するために、伊能忠敬の生い立ちから50歳で第二の人生を歩み大成した生涯が語られた。

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

伊能忠敬は日本全国を踏破した最大の旅行家である。1745年に上総国山武郡小関村で出生し幼名は小関三治郎であった。1751年に母と死別した後、1755年には父の実家である神保家に引き取られた。1762年に伊能家(佐原村)の婿養子となると家業を成功させ巨万の富を生み出した。49歳で家督を息子に譲ると江戸にて隠宅を構えた。50歳になると幕府の天文方である高橋至時の弟子となり、本格的に天文の勉強を始めた。ただし、隠居する前にも時間を作っては勉強していたそうだ。

師匠につき、さらに天文学を深めた忠敬は「子午線1度の長さを知りたい」と思い立ち、この思いが全国測量につながっていった。1800年から17年間に渡る全国測量の前半(第1次〜第4次)は幕府の補助事業であったが忠敬の持ち出しが多く家業で成功を収めたからこそこのような公共事業に投資できた。前半の業績が幕府に認められると後半(第5次〜第10次)は幕府の直轄事業となり経費の全額が幕府持ちとなった。直轄事業となったことにより忠敬は町人から役人へと転身したのだった。また、忠敬は日本を測量して周りながら毎日欠かさずに日記を書いていた。そこには測量に関することだけでなく、巡った地域の社会や風習にまつわる情報が散りばめられている。

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

忠敬は北海道(蝦夷地)の測量をやり直したかったがそれは叶わず、弟子である間宮林蔵のデータを活用した可能性が高い。

また、第1次と第2次の測量結果から子午線1度の長さは28.2里だと算出したが、この値は当時世界的に認められたラランド暦書に記された値と一致していた。

 

こちらは忠敬が出生してから死去するまでの居住地の変化を記したもの。ただし、旅に出ていることが多かった晩年は全国各地を転々としていたことになる。

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

忠敬の性格を示す家訓書(国宝)も紹介された。

【参考】 次のリンクに家訓書が紹介されている。

 

忠敬の測量は梵天を使用した導線法であり、その誤差を解消するために交会法を組み合わせて測定精度を確保していた。さらに坂道では勾配を測り平面距離に置き換えていた。また、恒星の高角度を・・・。これらの測定に使用された機器も多彩であった。

これらの測量を実施する測量隊の構成人数は、前半(第1次〜第4次)で10名前後、後半(第5次以降)ではその2倍以上の体制となっていた。期間としては前半が4年間であったのに対し、後半は13年(測量の期間は10年)を要している。しかも第5次と第6次の間には空白の一年間がある。地図(測量)が詳細であるなどさまざまな要因はあるが、もっとも大きな要因は海岸線の複雑さであろう。

また、測量作業の一日は
早朝に作業を開始し、先発隊と後発隊に分かれて活動する。午後3時には宿泊地へ到着する。しかし、それで仕事が終わりではなく、あいさつや打ち合わせ、先触れの配付、さらには見舞いの受け入れなど宿に到着してからも忙しい。また、測量実務においても江戸へ持ち帰ってから地図を作成するための下図(原稿)作りのほか、恒星の角高度測定や月食、木星の凌犯の観測など夜にしかできないことも多い。そのため、伊能測量に参加する者は「酒を飲まない証文」を書いている。しかし、その禁を破るものもいた・・・

 

などなど、星埜由久さんは知りうることを次から次へと紹介してくださった。

しかし、そのボリュームは計り知れない。

講演のテーマにある「伊能忠敬の志摩測量」についてはこの辺りから盛り上がるはずだった。しかし前半の解説が詳細だったこともあり、期待していた話題には時間が取れなくなり残念ながら100m走のような駆け足になってしまった。(短くとも2時間の時間枠は必要だったのだろう。)

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

面白そうなエピソードがたくさんでてきそうなのに残念。講演の後に映画が上映されたが映画を観なかった私にとっては講演時間を延長して欲しいくらいだった。この辺りは現在勉強している「測量日記」のズバリの部分なのに。そんな早足解説のなかでも、次のエピソードは印象的だった。

「見舞いの際に持参された差入れは持ち帰ることができないため、差入れを持参した人に売り払い(換金)をお願いしていた。」 なんと大胆なことだろう。

 

それ以外については、スライドを注意深く読んでみよう。

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

第6次には正月に内宮へもお参りしている。

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

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講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

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講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

伊能測量が成功した原動力として上げられたのは次の6項目。

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

なかでも前半生の成功により経済力は大きい。この経済力が無ければ第1次〜第4次の測量は成功しなかっただろうし、いや第2次は実現できなかったかも知れない。

忠敬が若い頃から機が熟すまでは自身の欲求を抑えて商売に注力したことが結果的には無駄にはならず成功へと導く礎となった。やはり人生に無駄なことなど無いのだろう。回り道の先には豊かな未来が待(舞)っている。

そんなことを思いながら講演を聞き終えた。

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

講演会「伊能忠敬の志摩測量」講師 星埜由久 氏

 

次回は3時間の講演会を聴いてみたい。

 

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