2020年01月01日(祝・水) 美旗古墳群めぐり(名張市) (近鉄、徒歩)
昨日、2019年の大晦日には「美旗古墳群めぐり」を予定していたが、次の制作が遅れて実現できなかった。
【参考】
- 【完了】「モノクロームな日々 2018」のウォール制作 2019年12月31日
数年前には奈良を訪れることが多く近鉄大阪線での行き帰りで目にした美旗駅とその周辺には古墳が点在することは知っていた。しかし興味はあったもののなかなか美旗を訪れる機会を作れずにいた。最近になって何かの記事で【美旗古墳群】の特集を読んだところ、美旗を訪れたい気持ちが非常に高まってきた。そのため、2019年にはと思っていたのだったが年内には実現できなかった。
昨日にはできなかったことをできる限り早く実施するために翌日の実施となった。つまり、大晦日には実施できずに元日の実施となったのだった。
美旗古墳群めぐりについては、次のサイトを参考にルートを設定した。
【参考】
- 近鉄てくてくまっぷ(三重-2) 美旗古墳群巡りと初瀬街道コース約8km(PDFマップのリンクあり)
- みえの歴史街道/ウォーキング・マップ:初瀬街道(PDFマップのリンクあり)
- 美旗古墳群 – 名張市 (PDF)
- 美旗古墳群(小6歴史) – 名張市 (PDF)
【近鉄 美旗駅】
伊勢市駅から近鉄大阪線 上本町行の急行に乗車すると約1時間ほどで美旗駅に到着。
無人駅の自動改札を出ると駅舎をパチリ。
駅前にはこちらのハイキングマップが設置されている。
なお、本日に巡ったルートはこちら。
美旗駅 → 馬塚古墳 → 中村橋(小波田川) → 貴人塚古墳 → 赤井塚古墳 → 観阿弥ふるさと公園 → 滝川氏城跡 → 新田用水の円筒分水塔 → (新田用水) → 新田常夜燈・鎮火社 → (初瀬街道) → 真性寺 → 小塚古墳 → (初瀬街道) → 六地蔵・殿塚古墳 → (新田用水) → 女良塚古墳 → 浅間神社 → 毘沙門塚古墳 → 美波多神社 → 美波多神社 常夜燈 → 美旗駅
駅を背にして進めばぞの前方には美旗遺跡群の中で最も大きな馬塚古墳が横たわっている。
丁字路を右方向へ進むと
【馬塚古墳】
こちらにたどり着く。
古墳へと続く小道を進み馬塚古墳を散策した。周回すればその大きさを体感できる。
こちらには多数の石仏が並んでいる。
前方から後円へと続く斜面にはこんな場所があり周辺には割れた瓦は散乱していた。かつては祠が建てられていたような雰囲気だった。
一番と刻されている石仏。
後円の頂上へ登ると美旗の町を一望できる。先程に降り立った美旗駅方向をパチリ。
さらには午後から巡る女良塚古墳の方向も。
馬塚古墳を後にしようとした時、足元に見慣れた山頂標を見つけた。
それはイセAOKIさんによるもので「美旗山 点名美旗古墳 225.5m」と記されていた。
【馬塚古墳 〜貴人塚古墳】
馬塚古墳を後にすると石碑前の道路を西南方向へ。
道なりに進み
坂道を下ると小波田川に架かる中村橋にたどり着く。
中村橋を渡らずに小波田川の右岸を進むと
赤い水門の前には伊賀鉄道鉄橋跡が残されている。
水門を過ぎると道は小波田川を離れて左方向へ曲がっている。
道なりに進むと上りの坂道となる。
坂道の上は十字路となっていて、前方右方向に貴人塚古墳が望める。
十字路の左手にはこちらの道標が立っている。
【貴人塚古墳】
貴人塚古墳へはこちらの小道で近づける。
説明板を確認してから
足元を確認しながらこちらを確認した。馬塚古墳に比べればかなり小さい。
【貴人塚古墳〜赤井塚古墳】
先程の道標のところまで戻ると赤井塚古墳の方向へ坂道を下った。
坂道を下り始めると右に[下出分16]。
左後方には貴人塚古墳。
次の丁字路には滝川氏城跡の案内板がある。(赤井塚古墳まで往復した後にこちらへ向かった)
この道は集落の端を縫うように続く。
右手には農地が広がっている。
この付近は
[下小波田支7の1左1]
こちらの道標で「道が間違っていない」ことを確認して進む。
左方向に多数の墓石は望めたので帰りに立ち寄ろうと考えながら歩を進めた。
[下小波田支4]
複雑な五差路を過ぎると赤い水門で離れた小波田川に接近した。
小波田川に架けられたこの橋には誘われたが、先を急ぐため渡らずに・・・。
次の車も通れる橋を過ぎると
下から上へと変わり[上小波田支1の1右3]となった。
ここは国道165号と県道692号が交差する小波田交差点。
国道165号を横断し県道692号を進む。
名張市消防団美旗分団 小波田ポンプ庫の奥には「観阿弥創座の地」の石柱が立っている。
まずは赤井塚古墳を優先したが、ここでどちらへ進むか?(しばし悩んでしまった。)
結局、こちらの先に立っていた
cafe sanaburiの駐車場の案内板を確認し左へ進路を取った。
cafe sanaburi の前を通り過ぎると
こちらの十字路にたどり着く。ここにはみはた歴史散策の道標があり、
その近くには石の道標があったが、そこに刻された文字を読み取ることはできなかった。
この十字路は[小波田分1]。この十字路を左へ折れると
道なりに進む。この先で左へ進むと
この分岐にたどり着く。(結果的にはどちらへ進んでも赤井塚古墳へたどり着けるがその場所はわかり難い)私は左側の坂道を進み、清掃中の男性に赤井塚古墳の場所を尋ねた。
【赤井塚古墳】
実際には上った道を道なりに進めばここにたどり着く。地道への分岐があり、右側の舗装路を下れば先程の分岐からの道へと合流する。そして地道の先に赤井塚古墳がある。
赤井塚古墳およびその周辺は草が刈られて整備されていた。
横穴式石室の見学を期待してヘッドライトを持参していたが、石室の入口にはフェンスが設置されて立入禁止となっていた。(残念)
フェンスの外側からパチリ。
横穴の内部は暗くて見えないが、開口部を確認できた。
赤井塚古墳の周囲を巡るとその上方に祠を見つけた。
祠から山道へ戻ると山道を下ってくる人たちが。挨拶を交わした後に「山の上に何があるのか?」を尋ねたところ「この上のフェンスを自分で開ければ近くに神社がある。」とのこと。お二人の後ろ姿を見送ってから
山道を進んだ。程なく獣害防止用のフェン図が現れた。解錠した後、先へ進むと
数十m先に
神社がまつられていた。(社名を確認し忘れた)
鳥居をくぐり階段を進むと小祠の前にはお供えが多数。
来た道を戻ると今もくすぶっている焚き火跡が気になった。(大晦日はこちらでかがり火が焚かれたのだろう。)
【赤井塚古墳〜観阿弥ふるさと公園】
赤井塚古墳を後にして小波田川付近へ進むと行きには渡っていない橋を渡って
少し遠回り。ここからなら赤井塚古墳の中央に立つ木の先端が望めた。
[観阿弥創座の地]の石柱が立つ観阿弥ふるさと公園付近へ戻ると時間に余裕があったので寄り道となった。
【観阿弥ふるさと公園】
[観阿弥創座の地]の石柱の脇から続く坂道を進むと
公園の説明板。
急な坂道を登り詰めるとこんな場所にたどり着く。前方には[観阿弥創座之地]碑が建てれ、その隣にある石階を進めば
石垣の上は福田神社跡地だった。
またはこの公園には観阿弥の名が冠されているだけあり、能楽堂のような建物があった。
また、福田神社跡を挟んでその反対側にはこちらの小祠と山神がまつられている。
【観阿弥ふるさと公園〜滝川氏城跡】
観阿弥ふるさと公園を後にすると小波田交差点から来た道を戻った。
途中で家並みの間を進むと
行きに気になっていた場所に寄り道。こちらは綜福寺と下小波田集議所だった。
元の道へ戻ると行きには気づかなかった「つぐみカフェ」の看板を確認した。
お昼前だったが、さすがに元日は休みだった。
寄り道はこれくらいにすると次の目的地である滝川氏城跡へ向かった。
こちらの案内板に従って右折すると
先に訪れた貴人塚古墳を背にして
こちらの坂道を上った。
その途中にはこのようなプレートをいたる所に見かけた。
【滝川氏城跡】
坂道の先には滝川氏城跡。
手前にはこのような
広場があり
貴人塚古墳の方向を一望できる。
坂道をさらに奥へと進むとこのような方形の広場が野球場となっていた。その四方には
今も土塁が残されている。
滝川氏城跡からはこちらにある新田用水の円筒分水塔へ向かった。
【新田用水の円筒分水塔】
初めて目にした円筒分水塔の内部は
このようになっている。なお、新田用水は約360年前に築造されたそうだ。
【参考】
- 市史編さんだより 11号(PDF:1382 KB)
【新田用水】
新田用水は土手の上に作られ左右には道路が続いている。円筒分水塔から水路に沿って進むと
こちらには新田常夜燈(初瀬街道)が建ち、
その先は土手が道路で分断されている。ただし、用水は太いパイプで分断された先の土手へと続いている。
【新田常夜燈(初瀬街道)】
新田常夜燈を改めてパチリ。
道路を挟み常夜燈の向かい側にある土手の上にはこのようは道標が建てられている。
常夜燈を後にして初瀬街道を進むと[上庄田幹18]を過ぎた辺りに
【鎮火社】 (初瀬街道)
鎮火社がまつられている。その裏側には
左いせ道と刻された道標が残され、土手の上に建つ道標へと誘導しているようだ。かつて新田用水の土手は道路で分断されておらず、初瀬街道が土手を越えていたのだろうか? 想像してしまう。
しばらくは街道の雰囲気を楽しみながら・・・
【真性寺】
しばらくすると右手に真性寺がある。
【小塚古墳への入口付近(初瀬街道)】
真性寺を後にすると左方向にあるはずの案内板(小塚古墳)を探しながら進むと美旗小学校まで行ってしまった。小学校では行き過ぎなので真性寺まで戻ると左方向の路地に注意した。
するとこちら、
電柱番号札[上庄田幹6]の脇に地道があり、
小塚古墳へと続いていた。どうも案内板は姿を消しているようだ。そのため、電柱番号札[上庄田幹6]が目印となる。
軽トラックは走れるほどの農道を進むと
【小塚古墳】
その突き当りが小塚古墳である。(周囲はあぜ道ばかりなので、こちらへたどり着けるルートはこの農道だけだろう。)
小塚古墳から初瀬街道へ戻ると美旗小学校の前を過ぎて
こちらの交差点にたどり着く。
直進が初瀬街道だが、ここで右折し
女良塚古墳を目指した。
県道57号(先ほどの交差点で初瀬街道へ続く)を進むと
前方の左方向に女良塚古墳が近づいて来る。
こちらで左側の地道へ入れば女良塚古墳。しかし、ここでは直進方向にある殿塚古墳へ向かうため舗装路に従って民家の間を通り抜けた。
舗装路が途切れるとこのような地道となるので、迷いもせずに直進しないといけない。少しの不安を感じながら先へ進むと
【六地蔵・殿塚古墳】
墓地のような場所にたどり着く。
目印となる六地蔵を見つけたので
ここが殿塚古墳だろう。周囲を見渡すと左方向に
こちらの説明板を確認した。この先には踏み跡がなく石標は見当たらなかったので、この先へ踏み入ることは諦めた。
来た道を戻ると古墳の周囲に続く(左側を巻く)道へ進むと
こちらに突き当たった。
ここは近鉄大阪線の線路だった。右方向へ進みたかったがこの状況では先へも行けず、殿塚の陪塚であるワキ塚1号、2号を確認することはできなかった。
民家の間を戻り、この場所で女良塚古墳を背にすると
こちらの坂道を下った。
女良塚古墳の東側にある方墳 観音広1号・2号を探したが方向を誤ったようだ。
こちらでの探索を諦めると女良塚古墳付近へ戻った。こちらは
円筒分水塔から続く新田用水で、女良塚古墳および毘沙門塚古墳、美波多神社の前を流れていく。
【女良塚古墳】
用水に沿って地道へ入れば、こちらに
女良塚古墳の説明板があった。古墳へと続く小道を探したが見つけることができず
こちらから全景を確認し後にした。
新田用水は、この先で
近鉄大阪線の上を流れる。用水の上は歩道となっているので
美旗駅方向をパチリ。起伏の激しさがよくわかる。
用水の橋を渡り終えると左側には
【浅間神社(跡)】
このような場所があり、小さな五輪塔のほかに
浅間神社と刻された石が据えられていた。
浅間神社(跡)からも用水に沿って進むと
【毘沙門塚古墳】
こちらで右方向へ進んで毘沙門塚古墳の周囲を巡った。(古墳の周囲には堀が残され水が入っていたがうまく撮影できなかった。)
一周すると新田用水の近くに
こちらの説明板を見つけた。
その右奥には小道が続き、堀(池)の間にこのようは橋?(2本の金属と朽ちた木材)を見つけたので、注意深くその橋を渡った。
するとこちらの石柱へとたどり着き、古墳の上に立つことができた。
毘沙門塚古墳の隣には多目的広場があり、
その隅にあるトイレを借りた。
近くの電柱には[西原一幹39左7右2]。
【美波多神社】
多目的広場からはほどなく美波多神社に到着した。
手水を受け参道を進むと左手に御祭神と由緒を見つけた。
地元の人たちだけが訪れるのだろう。
お参りを終えてから境内を散策すると本殿の左手に次の石碑を見つけた。
さらにその奥には「加納神社」。
その謂れについては、新田用水の円筒分水塔で紹介した 「市史編さんだより 11号」に紹介されている。
さらに、加納神社の脇には次の案内板があったので、先へ進むと
多数の石(左側の石柱に玉塚・・の文字を見つけたがほかは?)の奥、
こちらに、朽ちた木製のかけひ(掛樋)が置かれていた。
その説明はこちらだ。当社および新田用水と大いに関係している。(ご一読を)
さらに、本殿の右側へ回り込むと往古の呼称を残す三柱神社と雨乞石がまつられていた。
すべてのお参りを終えると参道を戻った。参道にはさまざまは常夜燈が奉納されている。
なかでも火袋と笠部分が木製の常夜燈では
この部分に特に惹かれてしまった。
美波多神社を後にすれば本日のめぐりはほぼ終了である。
美波多神社から続く直線の道を進むとその先には室生火山群(室生山地)が一望できる。(この位置だから建物が障害にならずに)
[西原第一幹39左6]
【常夜燈】
直線の道が初瀬街道に突き当たる丁字路には常夜燈と社号標が建てられている。
さらにその隣には本居宣長の歌碑も。
ここからは初瀬街道を歩くべきだったが、水路が続く小道を進んでしまった。団地の間を抜けてたどり着いたのがこちら。
こちらで近鉄大阪線を
くぐり抜けると美旗駅の駅舎前に出る。
乗車する電車の到着まで時間があったので、改めて馬塚古墳を訪れると本日のめぐりを振り返った。
【近鉄 美旗駅】
美旗駅まで戻ると
こちらでも馬塚古墳を遠望しながら電車を待った。
五十鈴川駅行の急行に乗車すると帰途の人となった。