「勢州大湊古記」に触発されて歩いた大湊(伊勢市大湊町)

2018年08月26日(日) 「勢州大湊古記」に触発されて歩いた大湊(伊勢市大湊町) (徒歩)

最近は伊勢古文書同好会の勉強会で「勢州大湊古記」を読んでいる。

【参考

 

その舞台が伊勢市大湊町なので現在の大湊を体感しつつ、過去にタイムスリップするために大湊を訪れることにした。

 

こちらは宮川の右岸を下り、大湊川が宮川へ合流する地点。

宮川の右岸から眺める大湊川との合流点

宮川の右岸から眺める大湊川との合流点

 

その近くには御幸道路から撤去された多数の石灯籠が集められている。

宮川と大湊川の合流点付近に保管されている御幸道路の石灯籠

宮川と大湊川の合流点付近に保管されている御幸道路の石灯籠

 

【参考】

 

こちらは大湊川の堤防道路から遠望した先ほどの宮川と大湊川の合流地点。そこに橋脚の跡があり橋が架けられていたことを物語っている。

大湊川の堤防道路から眺めた御祓橋跡

大湊川の堤防道路から眺めた御祓橋跡

 

伊勢郷土会により復刻された「度會ノ河内明細圖一名神都一覧」によると、この橋が江戸時代、山田奉行所のある小林村から大湊への唯一の架け橋だった。

度會ノ河内明細圖一名神都一覧(伊勢郷土会による古地図復刻版)より抜粋

度會ノ河内明細圖一名神都一覧(伊勢郷土会による古地図復刻版)より抜粋

 

またこの橋は次の企画展で目にした多数の古絵図にも示され、一部の絵図では「御祓橋」の名も添えられていた。

 

湊橋が架けられるまでこの橋が大湊への橋だったのだろう。今は第二湊橋もあり大湊への橋は2本ある。

しかし「今もこの橋があれば容易に大湊へ渡れるのに!」と思いつつ、第二湊橋まで堤防道路を進むと大湊川とは逆側では稲刈りが進められていた。

大湊川の堤防道路から眺めた稲刈り後の田んぼ

大湊川の堤防道路から眺めた稲刈り後の田んぼ

 

対岸に豊受大神宮 末社である志宝屋神社の社叢を望むと近くの第二湊橋を渡り急いだ。

大湊川の堤防道路から眺めた志宝屋神社(豊受大神宮 末社)の社叢

大湊川の堤防道路から眺めた志宝屋神社(豊受大神宮 末社)の社叢

 

志宝屋神社ではいつものように社叢の頂点でシラサギが羽ばたき、または殿舎の周囲を歩き回っていた。彼らに刺激を与えないように手短いお参りを済ませると

志宝屋神社(豊受大神宮 末社)

志宝屋神社(豊受大神宮 末社)

 

速やかに志宝屋神社を後にした。

志宝屋神社(豊受大神宮 末社)の社窓風景

志宝屋神社(豊受大神宮 末社)の社窓風景

 

その後、大湊川の堤防道路へ戻ると宮川との合流点ヘ移動した。こちらが先ほど遠望した御祓橋跡である。

大湊側から眺めた御祓橋跡

大湊側から眺めた御祓橋跡

 

残されるのはコンクリート製の橋脚であるが、先に紹介した山田奉行所記念館の企画展で目にした古絵図には木造の橋のイメージが示されていた。(江戸時代だから当然だろうが) ところで、この橋は何時に無くなったのだろう。

 

御祓橋を後にすると宮川の右岸を下流後方へ進んだ。右手には先程お参りしたお参りした志宝屋神社社叢が・・・。

宮川の右岸から望む志宝屋神社(豊受大神宮 末社)の社叢

宮川の右岸から望む志宝屋神社(豊受大神宮 末社)の社叢

 

堤防道路をさらに進むと

宮川の右岸(伊勢市大湊町)

宮川の右岸(伊勢市大湊町)

 

S字カーブの先に宮川の河口(0km地点)がある。

宮川の河口(0km)付近(伊勢市大湊町)

宮川の河口(0km)付近(伊勢市大湊町)

 

【参考】

 

左手に大湊海岸を見ながら堤防道路を進むと

大湊海岸(伊勢市大湊町)

大湊海岸(伊勢市大湊町)

 

松林の中にこの場所が現れる。

鷲ヶ浜(伊勢市大湊町)

鷲ヶ浜(伊勢市大湊町)

 

ここは鷲ヶ浜と呼ばれ、次の説明板が立っている。

鷲ヶ浜(伊勢市大湊町)

鷲ヶ浜(伊勢市大湊町)

 

鷲ヶ浜
倭姫命が、天照大神を奉遷する途中、大湊に立ち寄られ、飲み水を求められました。
地元に、住んでいた鷲取(わしとり)の翁が冷たい水をさしあげたので、命は大変喜ばれ水饗(みあえ)神社を定め、この浜を鷲取小浜(わしとりおはま)と名づけられ、その後、鷲ヶ浜と呼ばれる様になった。
平成14年に現在の堤防が完成し、また、ウミガメの産卵地としても有名になっています。
伊勢市大湊町振興会

 

鷲ヶ浜を後にすると堤防道路を東へと進んだが、途中で日陰を求めて堤防から右下の道を・・・

鷲ヶ浜から灯明台跡へ(伊勢市大湊町)

鷲ヶ浜から灯明台跡へ(伊勢市大湊町)

 

アスファルト舗装された道が途中で土道に変わると工場の脇を通り抜けた。その先にあるのがこの場所。この先へ進むと

灯明台跡付近(伊勢市大湊町)

灯明台跡付近(伊勢市大湊町)

 

左手にはこの説明が立っている。

灯明台跡の説明板(伊勢市大湊町)

灯明台跡の説明板(伊勢市大湊町)

 

灯明台跡(とうみょうだいあと)
弘化3年10月(1846)高さ約6.3m 台約3.6m四方、石垣高さ約2.4mの灯台が建てられ、海上を往来する船舶を照らしていました。
安政元年(1854)の津波で流され明治30年2月(1897)約10mの竿灯(かんとう)は設置され、その下に約一坪の建物が建てられました。夜になると灯りを入れたランプがウィンチで巻き上げられ、大湊港に出入りする船舶の目印になっていました。今も基礎の石垣が残っています。

 

説明板の前にはこんな石列が残されているのだが、これは説明にある「基礎の石垣」なのか、

灯明台跡の基礎石垣(伊勢市大湊町)

灯明台跡の基礎石垣?(伊勢市大湊町)

 

それとも東町延命地蔵尊がまつられている基壇がそれなのか? それとも別の場所なのか?

東町延命地蔵尊(伊勢市大湊町)

東町延命地蔵尊(伊勢市大湊町)

 

「今も基礎の石垣が残っています。」の石垣を特定できずにいる。(どこだろう?)

 

この先へ進むと造船所、さらには伊勢湾へと・・・。灯明台があった頃、この場所は海だったのか、それとも灯明台は説明板よりももっと水辺に近い場所にあったのだろうか?

灯明台跡付近(伊勢市大湊町)

灯明台跡付近(伊勢市大湊町)

 

灯明台付近へ戻るとその背面には草木に隠されるように大湊波除堤の石標が建っていた。

大湊波除堤の石標(伊勢市大湊町)

大湊波除堤の石標(伊勢市大湊町)

 

後でも紹介するが、20代の山田奉行であった保科淡路守正純の功績を讃えるものでもある。

 

どの辺りに波除堤があったのだろうかと想像しながら堤防道路を戻ると

大湊波除堤の石標付近(伊勢市大湊町)

大湊波除堤の石標付近(伊勢市大湊町)

 

左下には伊勢市立大湊小学校、

伊勢市立大湊小学校

伊勢市立大湊小学校

 

小学校の敷地先で堤防道路から左へ折れた。すると小学校の校庭の隅にこのような場所がある。小学校の校門は閉ざされているがフェンスの一部が切られていて、その場所から中へ入ることができる。

校庭の北東の隅(大湊小学校)

校庭の北東の隅(大湊小学校)

 

校庭の隅へ入るとまずはこの説明板を目にする。

大湊波除堤と山田奉行の説明板(大湊小学校)

大湊波除堤と山田奉行の説明板(大湊小学校)

 

大湊波除(なみよけ)堤と山田奉行
所在 伊勢市大湊町
近世以降の山田奉行四十八名中二十代に数えられる保科(ほしな)淡路守正純(在任1726〜33)は享保13年(1728)5月から同18年(1733)5月にかけて、幕府から二千数百余両の普請料の下付を得て、波除堤の補修を完了しました。長さ150間(約270メートル)に及びました。あわせてその内側(南側)は神宮のご営材の貯木場としました。
淡路守は神領奉行として八カ年、多くの事績を残しました。元文2年(1737)その卒去の報に接すると、大湊郷民は保科奉行の恩徳を永く伝えるため、謝恩の碑を刻みました。
碑の正面には「勝源院殿前淡州刺史(しし)収山義秋大居士」とあり、今も大湊市営墓地東方に安置されています。
なお保科奉行と同様、波除堤の補修に尽力した四十七代秋山安房守正光(在任1859〜63)は、能書のほまれの高い奉行でしたが、文久3年奉行在任中病死しました。元長楽寺境内(現袖野家裏)に、お墓が残されています。
伊勢市教育委員会

 

隣には大綿津見神社が鎮座し、

大綿津見神社(大湊小学校)

大綿津見神社(大湊小学校)

 

さらにその隣には大湊貯木場跡の石碑が建てられている。

神宮式年遷宮御用材 大湊貯木場跡の石碑(大湊小学校)

神宮式年遷宮御用材 大湊貯木場跡の石碑(大湊小学校)

 

神宮式年遷宮御用材
大湊貯木場跡
神宮大宮司 徳川宗敬書

 

この石碑の裏面には次の通り刻されていた。

由緒
この池は古来阿場家と言い、東西百八十五間、南北百十七間の池であった。中世以来 神宮式年御造営材の貯木場として有名で、弘治三年注進状にも記される地であった。また造船用材貯木場として、或は塩浜として地元産業の根幹地であった。
享保十四年時の山田奉行保科淡路守長さ■町四十間の防波堤を築き、また寛保三年よりこの地を塩浜として、民生に資した。
時勢の推移により昭和三十六年氏神日保見山八幡宮責任役員相議り埋立てを始め、昭和四十三年完工した地である。
この地の造成には、菊川茂氏を始め 当時の氏子総代一同の献身的奉仕によるものである。昭和四十三年四月神宮本庁の許可を得て一部を氏子の運動場、児童公園として保存しその他を住宅地として、氏子に分譲することにした。後日のためこれを記すものである。
昭和四十七年九月吉日建之

 

大湊小学校を後にすると堤防道路は避けて、一本内側の道を進んだ。すると善光寺の山門から朱色の鳥居がちらりと見えてしまった。

善光寺(伊勢市大湊町)

善光寺(伊勢市大湊町)

 

そこにはこのようなお稲荷さんがまつられ、その右隣には秋葉神社。

お稲荷さんほか、善光寺(伊勢市大湊町)

お稲荷さんほか、善光寺(伊勢市大湊町)

 

善光寺を出るとその先、大湊保育園の隣に次の説明板があった。

大湊造船徒弟学校の説明板(伊勢市大湊町)

大湊造船徒弟学校の説明板(伊勢市大湊町)

 

大湊造船徒弟学校
明治28年(1895)嘉納治五郎等が大湊を視察し、造船職工教育の必要性を説いたこともあり、地元の熱意も高まり急速に設立の準備が進められ、明治29年(1896)大湊工業補習学校設立を出願した。
明治32年(1899)「大湊造船徒弟学校」と改称、昭和33年(1958)「三重県立伊勢工業高校造船科・機会科」となる。
伊勢市大湊町振興会

 

この後、日保見山八幡宮の脇を通り、先に訪れた鷲ヶ浜近くの堤防まで戻った。そこにあるのは

義良親王御乗船地の標石付近(伊勢市大湊町)

義良親王御乗船地の標石付近(伊勢市大湊町)

 

この説明板。

源氏山と義良親王御乗船地の説明板(伊勢市大湊町)

源氏山と義良親王御乗船地の説明板(伊勢市大湊町)

 

源氏山と義良親王御乗船地南北朝時代、延元3年(1338)義良親王(後の後村上天皇)は、宗良親王北畠親房、北畠顕信、結城宗広等の武将と共に源氏山に陣を張り、大船53艘を大湊で調え東北へ向けて出帆しました。
伊勢市大湊町振興会

 

木々の下にこの標石を見つける。

義良親王御乗船地の標石(伊勢市大湊町)

義良親王御乗船地の標石(伊勢市大湊町)

 

続いては堤防道路から坂道を下ると日保見山八幡宮の裏手に移動した。土道が続く途中にこちらの説明板がある。

大湊波除堤石垣跡の説明板(伊勢市大湊町)

大湊波除堤石垣跡の説明板(伊勢市大湊町)

 

大湊波除堤石垣跡
大湊の波除堤は八幡宮裏から海岸べりの高州に沿って勢田川の河口まで築かれた石積みの大堤防。
享保13年(1728)の暴風雨で海岸線が大被害をうけたため。時の山田奉行保科淡路守に対し幕府の費用による堤防の建設を請願し翌年三百八十両 寛政七年(1795)には総工費千六百二十両余に及ぶ当時としての大工事でした。
仕様としては総延長949m梯形上辺の幅1.8m梯形下辺の幅16m高さ2.7mでした。
伊勢市大湊町振興会

 

先ほどの説明板から東側、日保見山八幡宮の北側ではこのように今でも大湊波除堤石垣を見て触ることができる。

大湊波除堤石垣跡(伊勢市大湊町)

大湊波除堤石垣跡(伊勢市大湊町)

 

堤防付近を後にすると先ほど通り過ぎた日保見山八幡宮へ向かった。参道の入口に建てられた説明板がこちら。

日保見山八幡宮の説明板(伊勢市大湊町)

日保見山八幡宮の説明板(伊勢市大湊町)

 

日保見山八幡宮
当社の創建は詳かではないが、後陽成天皇在位(1588〜1611)の後宸筆の石清水八幡宮の篇額二面が宝物として保存されて居ります。古くから大湊の産土神として尊宗され、従来単に八幡宮とか大湊八幡と称されていたが、明治4年7月旧字名をとって日保見山八幡宮と称号した。
主祭神は應仁(おうじん)天皇、神社合祀に関しては天照大神・神功(じんぐう)皇后・王依姫(たまよりひめ)・大物主命(おおものぬしのみこと)・宇受売命(うずめのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)・大巳貴命(おおなむちのみこと)・火結神(ほむすびのかみ)をそれぞれ合祀している。水饗神社・水御饗都神鷲取翁を祀る境内神社である。
日保見山稲荷社は旧輝騰庵(献忠寺前)に鎮座した稲荷社を境内に移転し他の無資格社稲荷も合祀している。
稲荷社祭神は卯かの宇迦之御魂神である。
伊勢市大湊町振興会

 

素晴らしい松の巨樹については後で紹介することとし、参道を進むと

日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

 

大きな木製の常夜燈が立っている。なおこれらは2012年の御遷座に合わせて建て替えられている。

大きな木製常夜燈、日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

大きな木製常夜燈、日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

 

【参考】

 

しかし、これらの台石は最初のままだろう。

大きな木製常夜燈の台石、日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

大きな木製常夜燈の台石、日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

 

鳥居をくぐり手水を受けると

日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

 

参道の正面と右側には大きな直方体に切り出された石が蕃塀の如く屹立している。何とも見事!

日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

 

枡形のような参道を進むとその先には拝殿がある。こちらにてお参り。

日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

 

さらに、拝殿の左側には先の説明板にもあった水饗神社がまつられている。さらにその隣には専用の建物が設けられ

水饗神社、日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

水饗神社、日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

 

その中には、前回の御遷座で建て替えられた先代の常夜燈が大切に保管されていた。

平成24年9月の御遷宮の際に交換された旧常夜燈(日保見山八幡宮

平成24年9月の御遷宮の際に交換された旧常夜燈(日保見山八幡宮

 

なお、こちらは伊勢市内で最古の在銘石灯籠とされているそうだ。

伊勢市内で最古の在銘石灯籠(日保見山八幡宮)

伊勢市内で最古の在銘石灯籠(日保見山八幡宮)

 

日保見山稲荷社にもお参り。この狐の口が顔に見えるのは私だけ?

稲荷神社、日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

稲荷神社、日保見山八幡宮(伊勢市大湊町)

 

お参りを終えると参道を戻り、弥栄の松をパチリ。

弥栄の松(日保見山八幡宮)

弥栄の松(日保見山八幡宮)

 

その解説はこちら。

弥栄の松の説明板(日保見山八幡宮)

弥栄の松の説明板(日保見山八幡宮)

 

弥栄の松(いやさかのまつ)
【種別】市天然記念物 平成21年5月1日指定
【員数】一株
【樹齢】約400年
【所在地】大湊町1062-6
【所有者】日保見山八幡宮(ひほみやまはちまんぐう)

この「弥栄の松」は、マツ科マツ属クロマツの巨樹で、樹高は約9.5メートル、胸高周囲は3.44メートルあります。
本能寺の変(天正10年[1582]の際、徳川家康の危難を救った大湊出身の廻船問屋・角屋(かどや)七郎次郎秀持(天文11年[1542]?〜慶長19年[1614])邸にあった松を移植したものと伝えられています。
傘松形に枝を広げた素晴らしい形をしており、地域の方々の尽力によって、大切に守られてきた貴重な松の木です。
平成23年3月 伊勢市教育委員会

 

何度も弥栄の松を振り返りながら日保見山八幡宮を後にすると

社務所と弥栄の松(日保見山八幡宮)

社務所と弥栄の松(日保見山八幡宮)

 

大湊の中でも今まで歩いたことのない道を選んで進んだ。するとここにもお寺、献忠寺。

献忠寺(伊勢市大湊町)

献忠寺(伊勢市大湊町)

 

さらに、ここにもお寺、海眼院。 お寺率がかなり高い。

海眼院(伊勢市大湊町)

海眼院(伊勢市大湊町)

 

さらにこんな珍しいお宅も見かけた。

ウロコの家?(伊勢市大湊町)

ウロコの家?(伊勢市大湊町)

 

神戸北野異人館街に建つうろこの家(旧ハリヤー邸)」の表情を見てしまった。

ウロコの家?(伊勢市大湊町)

ウロコの家?(伊勢市大湊町)

 

細い路地を通り抜けると最後にこの場所に立ち寄った。それは先の説明にあった山田奉行 保科淡路守正純 の墓参りのためだった。

伊勢市大湊墓地(伊勢市大湊町)

伊勢市大湊墓地(伊勢市大湊町)

 

東側とのことだったので他の場所を探したが、知人がFacebookで紹介されていたことを思い出し、

伊勢市大湊墓地(伊勢市大湊町)

伊勢市大湊墓地(伊勢市大湊町)

 

そこに掲載されていた写真と見比べると、こちらが「勝源院殿前淡州刺史収山義秋大居士」、保科淡路守正純の供養碑であることを確信した。

勝源院殿前淡州刺史収山義秋大居士と刻された保科淡路守正純の供養碑(伊勢市大湊墓地)

勝源院殿前淡州刺史収山義秋大居士と刻された保科淡路守正純の供養碑(伊勢市大湊墓地)

 

お参りを終えると湊橋で大湊を後にした。

湊橋からの遠望(大湊川)

湊橋からの遠望(大湊川)

 

「勢州大湊古記」に触発されて歩いた大湊。「勢州大湊古記」に関する情報を得ることはできなかったが、改めて大湊を歩くことにより大湊の懐の深さを感じた。「勢州大湊古記」の理解を深めるためにも大湊についてもっと知りたい。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です