2018年03月24日(土) 残念ながら、甫蔵主池付近の六字名号碑は明治の建立 (徒歩)
先日、甫蔵主池の名を知り、その近くに建っている六字名号碑を紹介した。
【参考】
- 名前がわかった甫蔵主池および小柳川(伊勢市一之木) 2018年03月10日
そこでは「宮川夜話草巻之一」の尾上坂の條から次の内容を引用し、もしかすると死刑場はこの辺りに移転されたのではないだろうか? と疑問を持った。
(前略)・・・地獄谷という。されどそれは上古のことにして近頃慶安寛文まではこの山とめのが池という所死刑場なりしが桑山君下知として甫蔵主川という所へ移転せられ・・・(後略)
その六字名号碑の建立年、願主が分かればさらに具体化できるだろうと思い、調査のために足を伸ばした。
伊勢赤十字病院付近に架かる厚生第二橋を渡った。(この上流側の川の現在の名称は?だが、ここでは甫蔵主池から流れる甫蔵主川の呼称を使用する。)
厚生第二橋から
甫蔵主川の上流側を望むとその右岸を歩き出した。
次に現れた橋は一之木南橋。
一之木南橋の先へも川はさらに
上流方向へと続く。
次に現れたのがさつき橋。
橋の中央から上流側を望むと
やっと目的の六字名号碑を望むことができた。次の写真の右側の水路が甫蔵主池からの流れで、左側の水路は高向から流れている水路だ。
前置きがとても長かったが
建立年が刻された裏面へ回るとパチリ。
そのままでは分かりにくかったため、画像処理を施したものがこちら。明治廿七年❏月と読める。
明治の建立では、宮川夜話草での時期とかけ離れている。
願主でも分かればと思ったが、建立年以外の文字を読み取ることができなかった。
「この処刑場はどこへ移されたのだろうか?」の疑問は「ふりだし」へ戻された。
はじめまして。
地元伊勢の者ですが、この石碑私も気になって調べた事が有りました、石碑の裏も覗いたのですが何て書かれてるか判りませんでした、明治27年のものだったのですね。
やはり処刑者を弔う為のものなのでしょう?。
HP 「江戸時代の刑罰施設」の三重県山田奉行所のところにも処刑場移転の事が書かれてました。
地元でもこの石碑を気にする人はあまりいないですよね。
トレりんさん、こんばんは。
コメントの承認が遅くなりスミマセン。
最近はスパムが多く、紛れてしまっていました。
コメントありがとうございます。
実は私、以前にトレりんさんのブログ記事「三瀬の渡し???」に案内板の件でコメントさせていただた者でした。
私は江戸時代の地誌「宮川夜話草」で地獄谷から死刑場が甫蔵主川へと移転されたことを知ったため、この石碑が関係しているのではないかと江戸の年号を期待しましたが、残念ながら明治のものでした。
ただ、知人から「子供の頃に魚がよく釣れるからということでホトス池に釣りに行くと父親に訳もわからずあんなとこで釣りをするなと怒鳴られた」というエピソードを聞いたことがあります。現時点では場所を特定することはできませんがアンテナを張りつつ気にしておきたいと思います。
また、トレりんさんのブログを拝見しましたので、ここで紹介しておきます。
小太郎ヶ池 | トレりんのブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/trilwalker/8032860.html
伊勢の地獄谷 (追記あり) | トレりんのブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/trilwalker/13346818.html
では、また、