2018年04月30日(月) 梅香寺旧跡を見つけ梅香寺までのぶらり (車、徒歩)
本日は伊勢市立伊勢図書館を後にすると
豊川百間堀へ流れ込む蓮隋山からの溝川に沿って歩き始めた。
右手に早修小学校の校舎が見えてくると
校門の隣に桜地蔵尊を見つけた。
まずはお参り。
桜地蔵尊を後にすると次の分岐にたどり着く。この分岐に
お水と刻された道標を見つけた。お水井戸のことだろうと思いながらもこの矢印に従ってみることにした。
曲がりくねった道を上りながら進むと
右側の視界が開けた。ここは宇治山田高校のテニスコート。(帰りはこの交差点をテニスコートの方へ折れた。)
左側に神宮の境界杭を数えながら先へ進むと
ここから風景が一変する。アスファルト舗装が地道に変わり、周囲は樹木で包み込まれる。
沢の流れを越えると分岐にこの道標が建っている。(行きは直進し、帰りは右側から下ってきた。)また、この道標前には「霊水観音参道です。バイク・自転車の通行を禁じます。梅香寺」の警告板が置かれていた。
8年ほど前にマウンテンバイクを押しながら三郷山からこちらへ下ったことを思い出した。あの頃は特に規制もなかったが・・・。
【参考】
- ロマンの森(書を持ち、野に出よう!) 2010年08月07日
今回は歩きなので警告を気にすることはない。早足で山道を進むと
左手にはこのような神宮司庁の「入林禁止」注意看板が所々に。
先に目にした道標と同様の道標を所々で見かけた。
いくつかの道標を過ぎ、坂道を駆け上がると
最後の道標が建つ分岐にたどり着く。(この道標に従い直すれば霊水観音へ、帰りはここを右へ進んだ。)
幟旗が立ち並ぶ参道を進むとその先には霊水観音がまつられ、その前には井戸が残されている。
霊水観音を後にすると先の分岐を左(来た道とは別方向)へ進んだ。このような雰囲気の山(参)道を進むと
大きな石が崩れた石垣にたどり着いた。この石垣はこの先で左方向へと続いていた。さらに右方向には
このような石段が下っていた。
石段の途中から右下には墓石が望めた。
石段を下ってから見上げるとパチリ。
墓石の周辺は草が生い茂っていたため近づくことを避け、さらに下るとこの道標を見つけた。
この近くには新しい立派な石碑が建ち、次のように刻されていた。
梅香寺 旧跡
当蓮隋山は、徳川家康公の側室お梅の方の懇請により、伊勢山田出身の聖僧、蓮隋上人が、元和元年(1615)に建立した、梅香寺の旧境内地である。お梅の方は、家康公亡き後、尼僧となられ、蓮華院殿窓誉梅香禅尼と号された。正保四年九月十一日、当地にて遷化される。享年六十二歳、西方斜面に墓所がある。
梅香寺は徳川将軍家の菩提寺として修行所として知られた名刹寺院であるが、幕末から明治にかけての法難に耐え、二十二世住職、南誉が、明治四十五年境内地、常磐表町筋向橋の地へ移転中興した。平成十年十月、新伽藍竣工。
当蓮隋山奥の院は、毎年三月十八日霊水観音供養の参詣者で賑わう。清(き)よ国に猶(なお)いやましの梓弓(あずさゆみ)
いるや佛の道ぞたへなる
梅香禅尼 詠平成十五年 梅香寺二十五世 榮誉記
ここが梅香寺旧跡であると言うことは先ほどの石垣もその名残だろう。旧跡の名残を探し、石碑の背後へ・・・。石仏が所々に立ち、湿地と化した場所には崩れた宝篋印塔が倒れかかっていた。
さらに近くには小さなお堂が建ち、その前には水道が引かれていた。(後で気になるので注目)
お堂の屋根には「梅」の文字が。
こんな墓石や
朽ちた木製の仏像まで。
「梅香寺 旧跡」の石碑の前にはこの坂道が続き、ここを下れば先ほど霊水観音へ向かった山(参)道と合流する。
しかし、同じ道を通るのも面白くないし、先ほど目にした梅香寺旧跡の説明も気になっていたので、別のルートを探したところ、石碑に向かって右方向に次の道を見つけた。
アスファルト舗装され、手すりが付けられた立派な道。落ち葉で滑らないように注意しながら歩を進めるとウグイスが鳴き始めた。しばし、口笛にてウグイスとの掛け合いを楽しんだ。
こちらは台風による被害の復旧だろうか。振り返ってのパチリ。
さらに坂道を下ると、僧侶の墓塔として使われる卵形の墓石(無縫塔、卵塔)が立ち並ぶ卵塔場にたどり着いた。ここが先の説明にあった「西方斜面に墓所がある。」の場所だろうか。
他の墓石よりも高い位置に置かれた卵塔が2基、これらの存在が気にはなったが、
それ以上に、正面に建つ五輪塔が・・・。その前に立て掛けられていた卒塔婆を見るとそこには
『蓮華院殿窓誉梅香禅尼』の名が記されていた。まさに先ほどの説明板にあったお梅の方の名だった。
その他も探してみると
左側の墓石には「移転中興、南誉、二十二世」と刻され、卒塔婆が供えられていた。こちらが梅香寺を現在地へ移転中興した南誉の墓所だった。
先ほど下ってきた坂道をさらに下ればこの場所から抜けられると勝手に思い込んだ私は、坂道を下り切った。しかし、近くに車のルーフが見えるものの
目の前に広がる湿地帯に阻まれてあちらの世界へは容易に移動できなかった。(仕方なく、来た道(坂道)を登り返すことにした。)
先ほどの卵塔場の脇を通り過ぎて
この場所にたどり着いた時、
たくさんの瓦が私の目に飛び込んできた。(行きには気づかなかったのに)
瓦師の銘を探しまわったが、結局のところ銘を見つけることはできなかった。
この線は???(わからない。)
しかし、破損した瓦が散乱する斜面を登り切ったところにこんな土塀の残骸を見つけた。傷みはかなり激しいが、まだ自立している。
さらに、木立の奥に単独の五輪塔を見かけた。
破損した瓦が散乱した場所を後にすると水道管らしきパイプを見つけた。先ほど見かけた蛇口までつながっているのだろうか?
梅香寺旧跡の石碑まで戻ると正面の坂道を下る手前で左側をパチリ。隠されるように朽ちた建物の屋根が存在を強調していた。
坂道を下ると、霊水観音へ続いている山(参)道と合流するので、左折して
来た道を戻った。
宇治山田高校テニスコートの手前を左へ折れると道なりに進み
ここで伊勢市常磐町と浦口との境界に出た。偶然にも梅香寺旧跡を訪れることになったので、今日は現在の梅香寺にお参りすることも急遽決まった。(決めた。)ここを右へ進めば良いはずだが、
高台からの眺望を確認したくなり、坂道を登った。
歩きなのでこんな警告には注意を払わず、
さらに奥へと進んだ。
こちらの土蔵近くへたどり着くと
右方向にこんな光景が広がっていた。高校生の頃、この場所に迷い込んだことがあったような・・・。
高台から真っ直ぐに坂道を下ってくればこちらに突き当たる。ここを左へ折れ
右側に宇治山田高校の校舎を見上げながら進むと
進行方向左側に見慣れない道標を見つけた。
この道標には、
左 浦口町 ↑本通
新開地
右 二俣町 ↓白石通
新開地の道標を背にして進むと、右手に「天神丘トンネル」の銘板が望める位置で
赤信号待ちとなった。
交差点を横断して次の路地を右へ入ると
清川と合流した。
さらに進むと清川は暗渠となる? いや、その流れを追うと
二軒の建物の下をくぐり
こちらの先へと流れていた。何とも不思議な流れである。
先ほどの暗渠開始位置まで戻ると視線の先に階段が続いていた。
私は迷うこと無くこの階段を登っていた。
階段の右側には墓石が立ち並んでいた。
最上部付近からのパチリ。
階段を下る途中でのパチリ。
階段を後にして清川の流れを追うと天神橋の先で
左へ直角に曲がっていた。天神橋を渡って遠回りする途中
こちらのお店の入口に
こんな案内掲示が貼りだされていた。霊水観音には先ほどお参りしてきたばかりだった。
天神橋からの清川の流れを追いかけると
今は無き山名橋の親柱が立つこの場所へと続いていた。
そして、ついに本日の最終目的地となった梅香寺に到着した。
山門をくぐると
左方向に本殿が望める。
お参り。
あれに見えるはシンボルツリーのようなイチョウだった。
寺務所には「笑門」と書かれた桃符(木札)が付けられた注連飾りが掲げられていた。
山門付近まで戻ると
手水石の奥に大事そうに立て掛けられている瓦を見つけた。
特別なものなのだろうか?
こちらには
毘沙門天がまつられている。
ガサガサと・・・。
私が山門をくぐると、入れ替わるように
JPの配達員が山門をくぐった。
山門を出て、土塀を左方向(時計と同じ向き)へ進むと
梅香寺の一画には惣六稲荷大明神がまつられている。ただし、入口の扉は施錠され、中へ入ることができない。
フェンスには「寒中御見舞」札が貼られていた。
また、拝殿の正面には扁額があり、『惣六稲荷大明神』であると思われる。
しかし、その考えを後押しする根拠は手持ちでは無かった
惣六稲荷大明神を後にすると
橋村世古の先にあるこの小道を進んで伊勢市立伊勢図書館へ戻った。
よく、梅香寺跡までいけましたね(すごい!)。
私の実母の実家が、ぶどう畑の土蔵のある家です。
ぶどう畑(常磐町)やら梅香寺あたりは、母の
少女時代の格好の遊び場だったようで、
ぶどう畑付近の坂道を下ったT字路あたり
まで山林だつたようです。
そして早修小や宇治山田高女まで徒歩で
通っていたそうです。
4月29日の日曜日は、実母(95才)と一緒に
母の実家である、この土蔵のある家
を訪ねたところでした。
母の実家もぶどうやら梨とかの果樹園を
最近まで営んでいたそうです。
その頃のことをつい最近の出来事のように
語っていました(^^)
たかっちさん
いつも興味深いお話をありがとうございます。
ぶどう畑の土蔵のある家がお母様のご実家、しかも私が通りかかった前日に訪れられていたとは何とも不思議なことです。
私は高校生の頃、この辺りの谷筋に広がる果樹園に迷い込んだ記憶があります。伊勢でこんな光景を目にすることができるとは驚きでした。
「果樹園を最近まで営んでいたそうです。」ということはあの光景はもう見ることができなくなるのでしょうね。残念です。
この梅香寺の件でも、母はいつも、今でも言っています・・・
母は旧梅香寺あたりをいつも遊び場にしていました・・。
(昭和期戦前の話です)
「寺の住職夫婦が本当に変な人で、檀家の人が訪ねて来ても、
近所の人も敷地の中へ入れさせんようにしとったんやんな・・・
それで、寺も寂れてきて・・人も来んようになっしもた・・」
・・・今でも、近所の人は、梅香寺さんのことをこころよく
思っていないようです?
筋向橋への移転がこのことにどう関わっているのか
分かりませんが?
たかっちさん
興味深い話ですね。
過去を語れる方が少なくなる中、貴重なお話です。
お母様にもっと語っていただければ・・・
初めまして。私の亡父は戦前、二俣町に住んでいたそうです。子どものころ、一度だけ行ったことがあり、浦口町の墓地の裏あたりで、石階段の脇に大きな仏道が何体もあったのを覚えています。地図で見ると玄忠寺の下あたりでしょうか。お分かりであればご教示ください。筋向橋を通ったのを覚えています。
N・Yさん
こんばんは、お父様の思い出の場所なのですね。
もしかするとこの辺りですか? ここならご指摘の通り玄忠寺の入口付近です。
もし違うのであれば、その他の場所で気づいた時にコメントします。