2019年11月04日(月) 昨日に見かけた新しい鳥居を求めての下御糸・上御糸ぶらり(多気郡明和町) (車、徒歩)
昨日、国道23号を走っていた時、道路が混雑していたおかげで、明和町行部付近に新しい鳥居を見かけた。昨日からとても気になっていたので、朝からその鳥居が建つ神社を訪れることにした。
折角なのでその周辺を散策することとし地図で調べると、目標となる神社は多気郡明和町行部に鎮座する須賀神社だった。この付近は下御糸と上御糸の境界付近である。
かつて、この付近には下御糸村、上御糸村があったが町村合併により「御糸」の名称は行政の地名には残されていない。小学校や郵便局、橋、漁港などでその名を見ることはできるが、その区域がどの範囲であったのかを知ることはできない。ところが、合併前の歴史的行政区域を容易に知ることができるサイトを見つけたので、その区域内をぶらりとめぐることにした。(そのサイトについては別の記事で紹介する予定)
その範囲の中には以前に訪れた畠田神社も含まれ、その時には訪れることができなかった2ヶ所の畠田神社跡も訪れる。さらに、いつも国道23号から煙突を眺めている御糸織物株式会社のその煙突を間近で見上げる。さらに、目的地の須賀神社から南へ下って、若之神社および大庭神社をめぐる次のルートだった。このルートを考えていたら出発するのが遅くなり、午前中に帰宅する予定が一時間以上もオーバーしてしまった。また、いつものように寄り道や新しい発見もあるし、今回はルートを外れて行き過ぎるミスまで。
しかし、素晴らしい偶然など充実した4時間のぶらりとなった。
イオンモール明和 -> 畠田神社(明和町中村) -> 畠田神社跡(北藤原) -> 畠田神社跡(南藤原) -> 石田神社跡(養川) -> 御糸織物株式会社 -> 須賀神社(行部) -> 檜山神社(行部) -> 正法寺(馬之上) -> 若之神社(佐田) -> 大庭神社(佐田) -> 前野神社(前野) -> イオンモール明和
青色:予定通り、橙色:偶然に(通り道、ルート変更)、赤色:偶然に(ルートを外れて行き過ぎのミス)
これらのチェックポイントをGoogleMapに落とし込んだものがこちら。
(※ (J)からスタート地点までは線が引かれていないが、(J)から北上してゴール付近で西へ向かった。)
イオンモール明和に駐車すると
中村3交差点で国道23号を横断した。右手にケーズデンキを見ながら道なりに進むと
右側にこちらの標柱が現れる。明和町では歴史的な資源、遺跡の存在を気付かせてくれる仕掛けが至る所に設置されている。
中村城跡 中村 堀之内
伊勢國司北畠氏の重臣北堂氏の城跡 八代具教が織田に謀殺されてから北畠氏の再興を図ったが果せたのち豊臣秀吉の名により城廓を廃し姓を中村と改め帰農したがのち姓を城と改めた
その向かい側には、電柱番号板[北藤原支 21]。その先で右へ折れ畠田神社の社叢を目指した。
畠田神社へ向かう途中で津島神社の神札を見つけたので振り返ってのパチリ。
瑞龍山陽珠院の看板にたどり着けば、畠田神社は目の前である。
本日は偶然にも畠田神社の裏にある敷地にて伊勢神宮カケチカラ会により大嘗祭の準備が進められていた。貴重な場を拝見できたことはありがたいことだ。
【参考】
- 伊勢神宮カケチカラ会による大嘗祭のための懸税(かけちから)づくり(多気郡明和町中村) 2019年11月04日
貴重な場を後にすると、畠田神社にお参り。
【参考】
- 畠田神社(多気郡明和町中村) 2018年08月25日
この後は、前回に訪れた際には訪れることができなかった2ケ所の畠田神社跡(北藤原、南藤原)を訪れた。
畠田神社を後にすると橋を渡り次の十字路を左へ。曲がったところで振り返ってのパチリ。
集落の手前で右折すると
こちらの標柱にたどり着く。(ただし、上のあるGoogleMapでは別のルートとなっているので注意)
標柱の右側から続く参道を進むと
こちらが畠田神社跡(北藤原)だ。
敷地には次の石碑が建ち、
集積された山神さんが印象的だった。
北藤原の畠田神社跡を後にすると先の標柱を左へ折れ、次の十字路を右へ。その先を左へ道なりに。
県道705号を右へ折れると南藤原 バス停の先に
消防団㐧5分団㐧1部の車庫がある。南藤原の畠田神社跡はこの建物の裏手にある。
左から回り込むとこちらの広場がある。その右端に
御垣で囲われた場所、こちらが畠田神社跡である。
説明板によると
畠田神社跡 南藤原 里中
祭神は埴安比売神(はにやすひめのかみ)式内社 明治41年4月北藤原の畠田神社に合祀、同年8月に中村の畠田神社に移転、平安中期(約1000年前)には南北藤原と中村で一村であったが、村城の拡大で三ヶ村に分離した。その時畠田三社も分離したのだと伝えている
広場の向かい側に立つ電柱には、なぜか電柱番号板[北藤原幹 36]。
消防団㐧5分団㐧1部の車庫まで戻ると左へ進む、こちらの標識の丁字路を右(県道707号)へ進む。
右側に御糸小学校を遠望(ズームでパチリ)しながら進むと
こんなY字路にたどり着く。目の前の丁字路を左へ折れると
祓川へと寄り道。
下流方向を望むと県道705号の下御糸橋が望める。
しばし、祓川の左岸を遡ったが地道に変わるところで右折して県道707号へ戻った。その途中でのパチリ。次の写真の左には堤防のように盛られた場所が続く。
県道707号へ戻った場所はこちら。電柱番号板[北藤原幹 17]。
しばらくは県道を進む。
ほどなく予定していなかった。神社跡に出会った。こちらの標柱には[石田神社跡]とある。
説明板はこちら。
石田神社跡 養田 字荒剥
養川の荒剥(あらはぎ)にあり石田(いわた)とよむ(式内社) 祭神は豐宇気比売(とよけひめ) 明治41年4月北藤原の畠田神社に合祀同年8月中村の畠田神社に移転
こちらにてお参り。
しばらく歩くと右手方向には国道23号が近づいていた。
県道をさらに進むとこのように左へカーブする。
カーブの途中で望めるのは期待していたあの煙突が立つ建物である。こちらが御絲織物株式会社だった。
県道沿いにある養川公民館の敷地へ進むと
あの煙突を見上げた。
公民館の屋根には古そうな瓦が葺かれていたので注視すると
前面の右隅に2種類の刻印を見つけた。
養川公民館を後にすると紡績工場っぽい建物が現れた。この後、こちらのカーブミラーが重要になるのでチェック。
建物を右に巻くと
こちらが工場の出入口のようだった。その前にいた女性に尋ねたところあの煙突は今は使われていないとのこと。当時は石炭を焚いていたそうだ。工場内を見学したいものだ。
【参考】
さきほどのカーブミラーまで戻るとカーブミラーを背にして路地を進んだ。
その先がこちら。右の奥に道が見えるのでそちらへ進むと
こんな感じで道幅が変化していた。右手の奥に墓地を見つけたので往復した際、
こんな光景を見かけた。
先ほどの道へ戻り先へ進むと左手に
山神さん。
その向かい側には電柱番号板[前野幹 10 右2左9]。 右方向へ。
養川(東) バス停の先には
祓川が流れ
丹川橋が架けられている。
振り返って丹川橋をパチリ。
丹川橋を後にすると道なりに進む。
のだが、こんな風景が気になる。祓川から畑が続き、その先に堤があるようだ。増水すると畑は・・・
行部(西)バス停で道は分岐するが、直進(右)方向へ。
町並みを進むと
右方向に本日の主目的地である須賀神社が鎮座する。奥の鳥居が須賀神社のもので、手前の鳥居は
庚申さんだった。
須賀神社についてはこちら。
【参考】
- 国道23号から見かけた新しい鳥居は御造替中の須賀神社(多気郡明和町行部) 2019年11月04日
須賀神社を後にすると
仮殿となっている西行部公民館にてお参り。(だたし、出入口前にて)
公民館の脇を進むと公民館の裏手に[荘厳寺跡 行部]の標柱を見つける。
荘厳寺跡 行部
山号はの宝珠山のち行山と改める 開山期は不明 開山から10世を径て中興善応大徳の時 真言宗から浄土宗となる 寛文10年(1672)には行部納願寺の末寺となる
その奥には檜山神社。
お参りを終えると
拝殿前にある説明板を・・・。
檜山(ひやま)神社
由緒
当社の創始については詳らかではないが、江戸時代には八王子と称し、旧来当地の産土神として氏子の崇敬を集めてきた。明治五年に檜山神社と改称。一説に村名の行部は伊福部に通じ、古その地を開いたのが伊福部(または五百木部)であり、彼らが自らの奉ずる祖神、天火明命を当地に奉斎したといわれる。ただし、『神社明細帳』(昭和二七年)にその神名が登載されていない。祭日は旧暦11月19日であったが、明治末頃より12月19日に変更。昭和26年2月7日に境内社として祖霊社が新設され、戦没者の英霊23柱を祀る。
祭神
久々能知命
祭祀
例祭 12月19日
祈年祭 2月7日平成23年12月吉日
式年遷座記念
檜山神社を後にするとこんな所にも山神さんが集められていた。振り返って檜山神社方向をパチリ。
檜山神社を背にし、さらに進むと国道23号のアンバーパスに辿りつく。アンダーパスを進むと、水中ポンプだろうか? 「ゴーゴー・・・」と大きな音を立てていた。
アンダーパスを抜け、左を望むと行部2交差点の明和町東行部歩道橋が遠望できた。
歩道橋を背にして進むと次を左へ。
しばらくは直進だ。
電柱番号板[北出幹 11]を右に見たが、さらに直進。
しばらくすると社叢っぽい杜が近づいて来た。(実はこの杜が若之神社だったのだが、大庭神社と勘違いしてしまった。)
地図の状況と現況との不一致に気づいた時にはすでにこんなところまで来てしまっていた。電柱番号板[算所分 15]。
近くには正法寺宝篋印塔 庚申像の標柱が立っていた。
正法寺宝篋印塔 庚申像 馬之上算所
宝篋印塔は享保十四年(1729)の建立 庚申像ほか石造物あり
この標柱を背にするとこちらの先が正法寺だった。
正法寺の近くで位置、現在の位置と若之神社へのルートを確認した。
来た道よりも一本西側の道を北へ進むと
道なりに・・・
電柱番号板[第二御糸幹 27 直1]で
こちらを見かけたが、山神さん?、神社跡? 不明なのでさらに先へ・・・
風景を楽しみながら急ぎ足で進むと
先ほどは右方向に見えていた社叢が前方左方向に望めた。
こちらが若之神社だった。
帰宅後に記録を確認すると実は一度お参りしたことのある神社だった。
【参考】 お伊勢さん125社まいり 斎宮めぐり 2015年05月02日
この時は新鮮な気持ちでお参りしていたのだった。
若之神社を出ると右方向でこちらへ。ここも右へ
こちらの建物の間を抜けると左方向へ
道なりに進むと
電柱番号板[東村支5 直2]を確認し、
こちらの十字路にたどり着く。振り返ってのパチリ。明和町にはこのように
山神さんが集められた場所が多い。
こちらの左脇を進むと
大庭神社の社叢が望める。
途中には佐田城跡の石碑が建てられていた。
やっとのことで大庭神社に到着した。
お参り。
これで神社へのお参りは最後だと思っていたが、最後は偶然に神社を見つけてしまった。(この後)
大庭神社を後にすると県道707号に出た。目の前には上御糸小学校。
県道707号は南藤原の畠田神社跡を訪れてから御絲織物株式会社付近まで歩いた道だった。
道路の右側は電柱番号板[北出幹27]、
そして、左側にある
山神さんの付近には
電柱番号板[西出支1]。 北出に西出だ。
県道を北上すると
明和町上水道 北部第3水源地を過ぎて
前方の道幅が狭くなる。
そこには御糸橋が架かっていた。
御糸橋を渡り道が左へ曲がったところで、なぜか左へ曲がろうと私の内部から命令が・・・。
そして左の路地を進むとその先には社叢が望めた。
そこは前野神社だった。あまりの偶然に驚きだった。
お参り。
松幸農産に出たので
ここからも北上。
電柱番号板[南藤原幹23の1 左2]。
こちらで県道60号と交差し、横断するとさらに北へ。
どこかで左へ折れるタイミングを探っているとこの先、
田屋 バス停付近で水路を越えた。その後はぶらぶらと歩いていると
神服織機殿神社(皇大神宮 所管社)の社叢が望める交差点へたどり着いたので、ここを右折すれば
イオンモール明和は間近だった。
午前中に帰宅する予定だったが、さまざまなことがあり結局、イオンモール明和に到着したのが午後1時だった。イオンモール明和で買い物を終えて帰途に着いた。
さまざまな出会い、発見・・・、充実した4時間だった。
明和町史でも勉強しないと・・・・