説明板が設置されていた二木神社、御役所稲荷社(伊勢市御薗町小林)

2021年05月04日(祝・火) 説明板が設置されていた二木神社、御役所稲荷社(伊勢市御薗町小林) (徒歩)

久しぶりに訪れたのは二木神社(伊勢市御薗町小林)

二木神社(伊勢市御薗町小林)

二木神社(伊勢市御薗町小林)

 

【参考】 前回のお参り

 

鳥居をくぐり参道を進むと左手には見慣れない・・・?

二木神社の説明板(伊勢市御薗町小林)

二木神社の説明板(伊勢市御薗町小林)

 

説明板が新設されていた。前回の訪問時にはなかったので最近に立てられたものだった。

二木神社の説明板(伊勢市御薗町小林)

二木神社の説明板(伊勢市御薗町小林)

 

【二木神社の説明板】
二木(にき)神社
祭神 八柱神(はやしらのかみ) 御霊木像一躰 神宝刀二振
社格 村社
境内合祀社
 並木社(祭神不詳)
 山神社(祭神:大山祗命)
 淵社(祭神:宇賀御魂神)
 稲荷社(祭神:伏見稲荷社御分霊)
由緒
 神社の起源は定かでない。口伝では、平安時代の長和年間(1012〜17)に
創祀されたと伝わる。明治以前には八王子社と称し、小林(おはやし)村の
産土神社(土地の神を祀る神社)であった。御祭神は八柱神(古事記に記述
される五男三女の神)である。二木神社の社名は、明治三年(1870)の命名
だが、村名である小林の「林」の字を分解し、二本の木「二木神社」とした
ものである。
 明治時代の末期に政府が神社合祀運動(一町村一神社政策)を強力に推し
進めたため、二木神社は明治四十二年(1909)二月十七日、御薗村王中島に
ある御薗神社に遷座合祀された。小林地区に鎮座していた淵社もこの時に遷
座合祀されている。
 戦後、国家神道制度の廃止に伴い、旧社地へ復帰させようという声が高ま
りを見せた。敬神な地区住民の手によって、昭和二十六年十二月五日、二木
神社は御薗神社から分祀され、当地に遷座され現在に至っている。
                     伊勢市御薗町小林区

 

二木神社にてお参りを終えると

二木神社(伊勢市御薗町小林)

二木神社(伊勢市御薗町小林)

 

その北側にまつられている

御役所稲荷社(伊勢市御薗町小林)

御役所稲荷社(伊勢市御薗町小林)

 

御役所稲荷社にもお参り。

御役所稲荷社(伊勢市御薗町小林)

御役所稲荷社(伊勢市御薗町小林)

 

稲荷社の参道を進むとこちらに説明板が設置されていた。

御役所稲荷社の説明板(伊勢市御薗町小林)

御役所稲荷社の説明板(伊勢市御薗町小林)

 

御役所稲荷社の説明板(伊勢市御薗町小林)

御役所稲荷社の説明板(伊勢市御薗町小林)

 

【稲荷社の説明板】
稲荷社
 二木神社の境内にまつられている稲荷社は、御役所稲荷社が始まりです。
 関ヶ原の戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、神宮を守り海上警備を強化
するため、有滝村に山田奉行所を創設しました。寛永十二年(1635)、第七代山田
奉行の花房幸次(はなぶさよしつぐ)は、当地区の小林村に山田奉行所屋敷を移設
しました。この時小林村は上条村などとともに、幕府領(天領)となりました。
 
 時は過ぎ、宝暦六年(1756)八月、第二十四代山田奉行の水野忠福(みずのただ
とみ)は、奉行所の構内に伏見稲荷分霊をまつった御役所稲荷社を造立しました。
それ以来歴代奉行をはじめ役人衆は、政や裁判の無事遂行、諸難消除など、信奉厚
く後世まで継承しました。旧暦二月には初午祭がおこなわれ、近郷近在の人々の参
詣でにぎわいを見せたということです。
 
 明治元年(1868)、山田奉行所は幕府の滅亡とともに廃止され、屋敷は解体され
ました。しかし御役所稲荷社は、敬神な人々の縁で御神体が受け継がれることとな
り、明治三年(1870)、岩淵町の松木稲荷社(明治二十三年には松木皀樹(さいか
ち)稲荷社と改号)に合祀された後、明治三十三年(1900)には、小林地区にまつ
られている淵社の敷地への遷座移転がなされ、里帰りを果たしました。当地区の
人々は鎮守稲荷と呼んで参詣しました。淵社は、明治四十二年(1909)二月に二木
神社とともに御薗神社に合祀となりましたが、国家神道制度の廃止に伴い、
昭和二十六年(1951)十二月、御薗神社より分祀され、稲荷社は二木神社の境内に
まつられ現在に至っています。
                     伊勢市御薗町小林区

 

これらの説明板を設置したのは伊勢市教育委員会ではなく、伊勢市御薗町小林区となっている。

神社の由緒等を知る古老が高齢となるなか、後世に伝えるために小林区独自で案内板を立てたそうだ。

 

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