2018年05月04日(金) ぶらりで見つけた福井文右衛門 代官 自尽の地(松阪市保津町) (車、徒歩)
本日は神宮の神御衣を織る奉織作業を拝観するために、神服織機殿神社から神麻続機殿神社へ移動する途中、天香山神社に立ち寄った。
お参りを終えると以前から気になっていた隣のスペースへ移動した。こちらの建物には保津集会所の看板が掲げられていた。また、奥の建物は光安寺のようだ。
光安寺の前には小さな祠が建ち、
その建物の正面には笑門と記された桃符(木札)が取り付けられたしめ縄が掲げられていた。
その建物には多数の像が安置されている。伊勢市二見町江にある十王堂と同じ役割なのだろうか?
視線をこちらに渡すと
右から順に 庚申塔、
こちらは役行者?
さらにその隣には五色の幣帛。こちらには何がまつられていのか?
施錠された扉の中には小さな祠が二宇。その前には賽銭らしきものが置かれていた。そのように投げたのだろうか?
寄せ集め感のある保津集会所前を後にすると今まで歩いたことのない路地を進んだ。その先は田んぼが広がっていた。
振り返ると左手(上の写真のビューでは認められなかった)にはこんな建物があり
こんな看板が掲げられていた。
福井文右衛門 代官 自尽の地 岡勘平景秀 次席代官 勤務 名張藤堂家 代官所跡地
また、その隣にはこの掲示。
江戸初期、名張藤堂家 伊勢領の代官、福井文右衛門は、下機殿神社の神域において出間の人々に水路を掘らせたことに関して全責任を取り、1650年(慶安3年)5月に、当地、保津の代官所において自尽された。
福井代官の遺書により、事後のことを任された次席代官、岡 勘平は、景秀である。後継の代官となった。20年以上、伊勢領を治め、福井水路を守った。その後、名張へ帰り、1714年(正徳4年)8月に亡くなり、妙典寺の墓地に埋葬された。
この二人の代官を顕彰する。
2010年11月21日
作文 綿屋 しば栗
福井水路とはどこを流れているのだろう? 改めて福井水路を歩いてみたくなった。
20代の頃から知ってはいたが、30年後読むと胸に迫る重みが違います。福井代官が命を賭けて守ったのは民の生活だけでなく、自らの人としての誇りでもあったのだという事がよく分かります。その意を次いだ岡代官の心の内も。
ホーノ タツヤさん
ご無沙汰。
やはり地元だけにこの話は知っていたんだ。
神服織機殿神社の中を水路が通っているのは見かけたことがあるけどそれが福井水路だとは・・・辿りたいけど辿れない場所。次回訪れた時には水路の入口付近で出間村のために命を掛けた福井代官を偲びたいと思います。
では、また、
【キタヰ】さんへ
名張藤堂家の代官所跡地に掲げた私の作文をお読みいただき、
ネットに掲載していただきありがとうございました。
ペンネーム 綿屋しば栗
名張出身です。
2019年9月
綿屋しば栗さん
コメントありがとうございます。
この作文で福井文右衛門さんの偉業を知ることができました。
現在も活躍している水路をたどってみたいのですが、下機殿の場所だけは叶いません。
思いを馳せるばかりです。
キタヰさん
返信、ありがとうございます。
福井代官が、出間の人々に掘削させた水路を視察されるのなら、
神域の北東の隅の外側に回れば、見ることができます。
綿屋しば栗さん
ありがとうございます。
実は、この記事をアップした翌週には福井水路と思われるルートを追いかけていました。
その時の記録がこちらです。
https://www3.jingu125.info/2018/05/16/post-66721/
【キタヰ】さんへ
ご返信、ありがとうございます。
水路をご覧になられたことは、すぐに気が付きました。
私の本は、自宅で、印刷、片面印刷で出版しております。
「代官、福井文右衛門の風景」は、地元、
東黒部の阿弥陀寺に奉納し、
松阪市、名張市、の図書館、三重県立の図書館に納本してあります。
綿屋しば栗さん
松阪市の図書館か三重県立図書館で探してみます!
次席代官、岡 勘平について、ネットに載せまして、公開しました。
綿屋しば栗さん
こちらですよね。拝読しました。
https://smcb.jp/diaries/8066160
岡 勘平さんの人となりがイメージできる内容で、もっと知りたくなりますね。
私の本は、エッセイですが、地元出身の高校生が、参考にされて、学術論文を書かれましたが、まだ公開されていません。公開される時は、地元の公民館へ送られるようにお願いしてあります。
綿屋しば栗さん
どんな学術論文に仕上がっているのか興味深いです。