2018年10月20日(土) 二八稲荷神社を求めて高山神社の境内社 城山稲荷神社へ(津市丸之内) (車、徒歩)
久しぶりに津市を訪れたので、まずはこちら津市丸之内に鎮座する高山神社にお参りした。しかし、私の目的は高山神社だけでなく、境内社としてまつられている城山稲荷神社をお参りすることでもあった。
それは、伊勢のお稲荷さんを調べているなかで、二八稲荷神社の存在を知ったからだった。
【参考】
- 伊勢のお稲荷さん調査(伊勢図書館と・・・) 2018年10月08日
伊勢郷土史草 第29号に掲載されている酒徳 潮さんによる論考「伊勢市内の稲荷社(下) 山田・宇治地区を中心に」の冒頭を要約すると次の通りである。
明治末期には神社整理政策により宇治山田市の場合、多くの神社が最終的に市内の11の産土社へ合祀されたが、稲荷社もその対象に含まれていた。合祀された稲荷社は43社でその内、35社が境外無格社であり残り8社は境内社であった。合祀以前の稲荷社の多くは信徒数が10人程度の小規模の社で、建物に関しても桁梁とも1尺から5尺までの小さな祠が多く、由緒も不詳とされるものがほとんどであった。しかし合祀されなかった稲荷社が2社あった。それは白子園稲荷神社と二八稲荷神社である。
このように小規模な稲荷社が多いなか、二八稲荷神社は信徒数が1200名を超えるほどに崇敬者が多く、合祀されることに強い抵抗があったのではなかろうか?津にも信者が多いといわれ、こうした事情もあって津市へ移転されたようである。
明治44年に津市に移転され、現在、高山神社の境内に鎮座する。
つまり、合祀を避けるため敢えて伊勢を去り、津へ移転したことになる。合祀を強力に拒否した神社にとても興味を覚え、その後追いとなったのだった。
現在は津市丸之内、津城跡に隣接する社地に鎮座し藤堂高虎公をお祀りする高山神社。本記事の文末に掲載した「高山神社 参拝のしおり」の変遷にあるように現在の社地は内堀埋立地にあたるようだ。
津城跡(お城公園)付近の駐車場ば不案内だったが、まずは高山神社を訪れたところ参拝者用に数台分のスペースが確保されていた。社務所前の駐車スペースから境内を出ると参道の入口へ移動した。正面の鳥居をくぐり
参道を進むと
右手に建つ手水舎にて心身を清めた。
拝殿にて高山神社にお参り。
拝殿前には「高虎」の酒樽が奉納されていた。
高山神社へのお参りを終えると私にとってはメインイベントである。参道を折り返し、道路に面した鳥居の右手へ移動した。駐車場となっている参道(?)の入口にはこんな説明板が掲げられていた。
城山稲荷神社の御由緒
高山神社境内に祀られております城山稲荷神社はもと、宇治山田町浦口に二八稲荷社として祀られておりました。二月と八月の毎日とそれ以外の2と8の日には、地元町民よりも、津市からの商工業者や、一般市民の参詣者が長蛇の列をなす程でありました。津市民の信仰があつい現状に鑑み、明治四十四年津市長から宇治山田町長(当時)へ懇願し二八稲荷社をお社ごと、当時の津城内、高山神社境内へお移しし、「城山稲荷神社」と改称、津市商工業者、産業育成の守護神として、お祀りしました。昭和二十年の津市大空襲で神社全焼、昭和四十四年戦災復興事業の実施により現在地に遷座、現在に至っております。このような御由緒に準拠し、二月八日に大祭のほか2と8のつく日には商売繁盛、開運隆盛、不況打開、厄祓、安全祈願等のご祈祷をいたします。
駐車している車の間を進むと
鳥居の左手にはこちらの立派な社号標が立っている。
朱の鳥居を進むと途中で分岐となり、左方向への鳥居が続いている。
まずは拝殿にてお参り。こちらが元「二八稲荷神社」である城山稲荷神社。
鳥居の脇からは津城の石垣が望める。
先ほどの鳥居の分岐から左方向へ進むとその先には
このような場所だった。
正面の左側の小祠にはお稲荷さんが
右側は?
社務所でも尋ねてみたが、津市大空襲後の戦災復興事業にて市内各所より移転された神社とのこと。御祭神等の詳細は不明だった。その際にいただいたのがこちらの「高山神社 参拝のしおり」。
【追記】
- なお、二八稲荷社に関する伝承については、浦口町々史に詳細にまとめられている。