2019年01月04日(金) 気ままに巡った大湊、玉劔稲荷大明神との出会いほか(伊勢市大湊町) (車、徒歩)
最近は古文書の勉強をきっかけとして大湊に興味を持っている。
【参考】
- 「勢州大湊古記」に触発されて歩いた大湊(伊勢市大湊町) 2018年08月26日
とにかく巡る場所など特定せずにぶらりと気ままに訪れてみた。
堤防道路脇の駐車スペースに車を駐めたので、最初はこちら。大湊波除堤石垣跡である。
この場所はかなり懐かしい。
【参考】
- 「近世以前の土木遺産」サイトへの画像データの提供 2011年7月
続いては、倭姫命が訪れ鷲取の翁が冷たい水を差し上げたために水饗社が定められたとされる「鷲ケ浜(鷲取の小浜)」にも立ち寄った。
その後は大湊海岸へ出ると
海に向かって右方向(東南方向)へ進んだ。
行き止まりかと思われる場所を過ぎるとその先には石垣が現れた。
その石垣は海の中にも敷き詰められている。これは先ほど訪れた日保見山八幡宮裏に残る大湊波除堤石垣跡から続くものだろうか。
おそらく、ここが大湊波除堤石垣の東南端部だったのだろう。
石垣を上ると
この場所に出た。この付近には何度も訪れたことがあるが、海側から回ったのは初めてだ。やはりぶらりは楽しい。
東町ポンプ場の方へ進むとこの池への流れが気になった。今までは目的を持って巡っていたのでこの流れを追いかけるなんて考えなかったが
今日は自由なのでこの流れを追いかけてみた。大湊には神宮式年遷宮の御用材を集積、貯蔵しておく貯木場があったが今は埋め立てられている。おそらく、この流れはその大湊貯木場跡を縁取るように流れていると思われる。(実際には過去の絵図等で調べなくては・・・)
【参考】 冒頭のリンクで紹介している石碑がこちら
大湊小学校校庭の隅に建てられている神宮式年遷宮御用材 大湊貯木場跡の石碑
神宮式年遷宮御用材
大湊貯木場跡
神宮大宮司 徳川宗敬書
この石碑の裏面には次の通り刻されていた。
由緒
この池は古来阿場家と言い、東西百八十五間、南北百十七間の池であった。中世以来 神宮式年御造営材の貯木場として有名で、弘治三年注進状にも記される地であった。また造船用材貯木場として、或は塩浜として地元産業の根幹地であった。
享保十四年時の山田奉行保科淡路守長さ■町四十間の防波堤を築き、また寛保三年よりこの地を塩浜として、民生に資した。
時勢の推移により昭和三十六年氏神日保見山八幡宮責任役員相議り埋立てを始め、昭和四十三年完工した地である。
この地の造成には、菊川茂氏を始め 当時の氏子総代一同の献身的奉仕によるものである。昭和四十三年四月神宮本庁の許可を得て一部を氏子の運動場、児童公園として保存しその他を住宅地として、氏子に分譲することにした。後日のためこれを記すものである。
昭和四十七年九月吉日建之
この水路に沿って進むと右側には住宅街の先に大湊海岸の堤防道路が望める。
真っ直ぐに続いた水路の先には大湊バス停があり、この場所で水路は右へと方向を変える。
方向を変えた水路は大湊海岸の方向へ続くが
この場所で左へと曲がる。
この場所からさらに追いかけると
この先で水路脇の道路は途絶える。水路が蓋されていたのでその上を進むと
こんな場所に出た。この先には道がなく水路を追いかけることはできない。
この先で水路を見つけるために左方向へ迂回することにした。すると驚いたことにこんなに家が建て込んだ場所に鳥居を見つけた。
近づくと鳥居の先には
正面にある観音開きの板戸を閉じれば、完全に内部の小祠を保護できるような堅牢そうな建物が建っていた。
その前面、左右には稲荷社の神使である狐が配置されている。「こちらはお稲荷さんだ。」
階段を進むと格子越しにお参り。社号名は「玉劔稲荷大明神」だった。
お参り。
これで「伊勢のお伊勢さん」に一社を追加できた。
玉劔稲荷大明神前の道を先へ進むと突き当りの右方向にこの場所を見つけた。ここは先ほど迂回した水路の先だろう。
この近くには大湊造船徒弟学校跡の説明板がある。
本日は新たにお稲荷さんを見つけただけで十分満足なのだが、まだ帰宅予定時刻までに余裕があったので
日保見山八幡宮および水饗神社、お稲荷さんにお参り。
その後、献忠寺や海眼院ほかの周辺をぐるぐると巡ってから大湊川へと続く路地へ入った。この先で空き地を歩かせていただくと
この場所へ出た。
五十鈴川・勢田川との合流と宮川とを結ぶ大湊川は何ともゆったりとした流れだった。
大湊川の近くに路地には蔵やこのような家が見られた。
大湊海岸の堤防へ戻る途中、このような井戸も見つけた。
目的を定めない気ままな巡りは何と楽しいことか。
まだまだ尽きない大湊の魅力を次回も探ってみたい。気ままに・・・