2018年03月24日(土) 「離宮院跡」遺跡案内と参宮街道ウォーキング (車、徒歩)
『宮川流域案内人とともに「離宮院跡」遺跡案内と参宮街道ウォーキング』が実施された。
【ルート】
離宮院公園(離宮院跡)・官舎神社 → (参宮街道)→ 宮川親水公園・桜(下)の渡し場跡 → 休憩・昼食 → 尾崎咢堂記念館 → 離宮院公園
本企画の主催者である知人の御村一真さんから協力依頼があったため、今回私は参加者ではなく案内協力者としての参加となった。(結果的には大して協力できなかたのだが・・・。記録を残すくらいでお茶を濁しておこう。)
参加者は少なめだったが晴天のウォーキング日和となった。御村さんが挨拶ととも開始を告げると
お忙しいなか「離宮院跡」遺跡の案内のために参加していただいた田村陽一さんが紹介された。田村さんは宮川流域案内人であり、「宮川流域の遺跡を歩く(風媒社)」の著者である。
【参考】
- 田村陽一さんの著書「宮川流域の遺跡を歩く」に導かれての野後[のじり]城跡(度会郡大紀町) 2017年12月02日
- 「宮川流域の遺跡を歩く」を携えて訪れた岩出城跡および岩出城下町跡 2018年02月24日
案内人の紹介を終えると田村さんによる「離宮院跡」遺跡の案内が開始された。
概要は次の通り、詳細については田村さんの著書ほかをご参考に。
離宮院公園一体は大正13年に国史跡として指定された。離宮院とは斎王が天皇の名代として三節祭(6月、12月の月次祭と神嘗祭)のために2泊3日にて伊勢へ参向する際に宿泊する離宮のことである。離宮は次の4つの機能を有し、平安時代には一大官庁街を形成していた。
- 斎王の離宮
- 大神宮司の御厨(神宮や神三郡[度会郡、多気郡、飯野郡]の行政を司る正庁)
- 度会郡の駅家
- 神宮を所用で訪れる調停の官人をはじめとする要人の宿舎
なお、離宮院はかつて高河原(現月夜見宮付近)にあったが水害を避けてこちらへ遷された。さらに、この場所は一時期、多気(現明和町)の斎宮に代り常斎宮とされたことがあったが大火災が発生したため元に戻された。
このように、この地は一大官庁街であり、斎宮としても機能していたことを考えると広大な敷地であったことが想像できる。
こちらの配置図によると区画割りされた土塁が見られ明和町の斎宮と同様である。さらに町道開発工事に伴う発掘調査では八脚門と掘立柱柵列が見つかり、その北側への広大な施設の存在は確からしくなった。しかし、その広大な離宮院の施設配置や構造などはいまだ解明されていない。
また、配置図を見ると土塁と八脚門と交わっているがそれらが同時に存在することはあり得ない。発掘調査により土塁の方が新しいことが明らかになった。
離宮院跡配置図を後にするとまずは土塁(築垣)を確認した。
続いては八脚門跡付近にてかつての離宮院に思いをはせた。
この後、力藤の藤棚前へ移動すると道についての説明があった。飛鳥、平城、平安時代には都および周辺だけでなく、都から地方への道も計画的に、直線的に、道幅を広く整備された。伊勢神宮および国府(現志摩市)への道も同様である。
しかしながらこれらの道は国家のために整備されたものでその目的が無くなるとそれらの道は廃絶してしまった。ただし、斎宮周辺では直線的に伸びるかつての古道が残され、直線から外れたその先は複数のルートが提案されており斎王参向古道まつりで取り上げられるルートもそのひとつである。
【参考】
- 斎王参向古道ウォーク(斎王参向古道まつり) 2017年11月12日
離宮院跡の説明は終わると官舎神社へ向かった。
こちらが官舎神社。離宮院が高河原からこの地に遷された際に別の場所でまつられていた中臣氏社を離宮院の境内に奉遷し、式内官舎神社と改称したようだ。
【参考】
- 官舎神社|三重県神社庁教化委員会
官舎神社での説明を終えると先ほど歩いた参道を戻った。
参道の途中で左を眺めるとここにも土塁が残されていた。
スタート点であるJR参宮線宮川駅南口前まで戻ると、田村さんによる「離宮院跡」遺跡案内は終了となった。
こちらで田村さんとお別れすると私達は参宮街道ウォーキングへと歩を進めた。
宮川駅を後にすると
駅構内の不思議な光景を気にしながら
先ほどの説明にあった八脚門跡付近を通過した。
離宮院公園の端にある離宮道踏切でJR参宮線を越えた。
「離宮道の名はいつからあるのだろう?」
離宮道踏切を背にして古くからの道(直線ではなく左右に湾曲している、ここが離宮道?)を進むと
参宮街道と合流する。紀州藩高札場跡を確認すると
先へ進み
こちらで右折し、道なりに進んだ。
こちらは鳥羽藩本陣跡。それにしてもこの道は狭いにも関わらず交通量が多い。
こちらは鳥羽藩高札場跡。小俣町には紀州藩と鳥羽藩が・・・
かつて紀州藩は領内に鎮座する神社に「禁殺生」石を建て、。今回は巡らなかったが近くに鎮座する小俣神社()
先へ進むと参宮人見附 常夜燈。真っ二つに割られている。その片割れは何処に?なお、割れた面はかなり凸凹な状態になっている。現場で目にすれだ「なんだこれは」と驚く状態となっている。
参宮人見附を後にすると宮川左岸に広がる親水公園へ向かった。
ここが下の渡し跡、桜の渡しとも呼ばれ
おかげ参りが盛んな頃はどれだけの人がこの渡しを渡ったのだろう・・・
ちょうどお昼どきとなったため、こちらで40分ほどの昼食タイムとなった。
昼食を終えると参加者には御村さんが朝から準備したへんば餅が配られた。食後の甘いものは午後からの活力になった。
昼休みを終えると次の目的地である尾崎咢堂記念館を目指した。
JR参宮線 宮川橋梁をくぐり
続いては宮川橋をくぐった。
しばらくこのような場所を黙々と歩くと足元がぬかるんでいた。
こちらの金属の支柱には水位を図るメジャーが設置され6mを越える辺りに凹みがあった。増水時に流木が当たったのだろうか。
度会橋までたどり着くとここでも橋の下をくぐった。
この下をくぐる機会はほとんどないだろうから、参加者には新鮮な体験だったことだろう。
ここから河川敷を離れ県道へ上がり、県道を横断すれば
その先には柳の渡し(上の渡し)説明板が建っている。
こちら。
説明板を過ぎたところが尾崎咢堂記念館の入口である。私たちが入口付近に到着するとこちらの案内をお願いしていた館長の奥本謙造さんが待っていてくださった。
奥本さんに導かれて白亜の洋館のような尾崎咢堂記念館の正面へ進むと
我々はジョークを交えながらの奥本さんの巧みな話術に惹き込まれた。花を咲かせ始めた種々の桜やワシントンからは桜の返礼として贈られたハナミズキについて、さらには建物の入口についての話題などなど。
そしてこちらは尾崎咢堂の胸像、8年間の汚れを落とすために様々なメンテナンス用の商品を試したが○○社製の床ワックスが最適である。汚れはキレイに落ちたし、表面が滑るために鳥がとまれないから・・・。興味がある方は尾崎咢堂記念館を訪れて奥本さんに直接尋ねてみてください。
本題への前説でかなり奥本節に馴染んだ私たちは館内にある展示コーナーへと導かれると
「憲政の神様」と讃えられる尾崎咢堂について・・・。父親の転勤に伴い伊勢へと居を移した咢堂は宮崎文庫(英学校)に入学した。彼はそこで板垣退助らが起案した「民撰議院設立建白書」を読む機会を得、その内容に衝撃を受け、その実現に邁進することになった。その後、父は熊本へと転勤する際、彼は慶應義塾大学へ入学することになった。福沢諭吉に指導を受けるがとある理由から退学することになった。その後、紆余曲折を経て最初の衆議院議員総選挙が実施された時・・・
(この続き、さらなる詳細な内容については尾崎咢堂記念館を訪れ、奥本館長の語りを直接聞いてください。感動間違いなし。入館料は100円、なんと!)
尾崎咢堂記念館の二階からの風景をパチリ。
尾崎咢堂記念館を後にする際、こちらを眺め奥本さんの言葉を思いだした。この記念館は「尾崎咢堂を支えた名も無き人たちの記念館」であると。さらに咢堂が主張し求めた二つの「フセン」は「普通選挙」と「不戦」。
真っ直ぐな咢堂の性格と行動力、さらには周囲を惹き込む魅力に心を打たれて尾崎咢堂記念館を後にした。
田丸方向を背にすると
城田神社の遙拝所がある杜に立ち寄った。
その後、県道37号をこちらのトンネルとくぐると
菱川に沿ってしばらく進んだ。汁谷川に合流する手前を左へ折れると
この道を突き当たりまで歩いた。
すると汁谷川に突き当たる。振り返ってパチリ。
こちらの橋を渡れば、離宮院跡は目の前だ。
一日を振り返りながら汁谷川を後にすると
離宮院公園へ戻ってきた。
主催者である御村さんの挨拶で、本ツアーは終了となった。
皆さん、お疲れ様でした。
また、お会いしましょう!
尾崎咢堂記念館の奥村謙造君は伊勢高校の
同級生で、静岡大学教育学部を卒業後
伊勢市他各小学校の校長を経て、館長を
しています。実家の度会町小川から
通っています。入館料100円とはヤスッ!!
私も、四月にでも寄ってみょうっと!!!
たかっちさん
コメント承認が遅れてスミマセン。
館長の奥村さんは同級生だったのですね。
(おやじ)ギャグを挟みながらの見事な話術と深い内容に惹き込まれました。ぜひ立ち寄り旧交を深めてください。
私も再訪したいと思ってます。