2019年12月14日(土) 神武天皇東征の道編 第五回にて独自の昼休憩オプション 旧桜井市立粟原小学校から粟原寺跡付近へのピストン (車、バス、徒歩)
神武天皇東征の道編 第五回では、大宇陀から半坂峠を越え山道をかなり下ると桜井市粟原へたどり着いた。中腹部にある太神宮常夜燈から坂道を下りきった場所に旧桜井市立粟原小学校があり、ここで昼食の休憩となった。
【参考】
弁当を早めに食べ終えると出発時刻まで30分弱の余裕があった。中腹部の常夜燈からさらに上の方が気になっていた私は、10数分のピストンで行けるところまで登ってみようと頭が思うよりも先に足が動いていた。
旧桜井市立粟原小学校付近から
坂道を登り返すと
こちらの電柱で2つのことを発見した。
ひとつはこちらの地名「粟原」が「オオバラ」であること。さらに、電柱を支えている柱にも「シチュウ」と記された電柱番号札が掛けれられていること。
先ほど経由した道標まで戻ると来た道とは別方向(右方向)へ向かった。
その先には右手方向に下り坂があったがこちらが石位寺方向へと続く本来の旧道なのかもしれない。この時は上方を目指していたのでここは左、上り方向へ歩を進めた。
道幅は狭くなり、車は通れなくなった。
どんどん高度を稼ぐ。
しばらくはこんな風景が続いたが
再び民家が現れると
その先には両側を石垣で挟まれた急な坂道が続いた。
民家の間の抜けるとこんな場所に到着した。ここは神社のようだ。
石階を見つけると先へ進んだ。
鳥居をくぐる際に見上げると扁額には「天満宮」の文字が陽刻されていた。
お参り。
境内の隅には天満宮らしく、牛像がまつられていた。
天満宮を後にするとすでに戻るべき時刻。視線の先に十三石塔を確認したのだが、「数十m先へ進むと集合時刻に遅れるかも?」との不安が先にたちここで引き返してしまった。
後でわかったのだが、この先が「粟原寺跡」だった。下りを走ってでもこの先へ行けばよかったと後悔したのだった。
そんなこととは知らずに坂道を下る前にこちらのお堂に
ちらりとお参りしていた私だった。
この後は急ぎ足で
坂道を下った。
しかし、急いでいてもこんな光景には惹かれてしまう。
振り返ってのパチリ。
こちらで民家が姿を消すと
こんな風景を背にしながらコンクリート舗装された坂道をまっしぐら。
どんどん下ると
途中で右手方向に民家が望める。
中間付近まで到着すると集合時刻には間に合いそうだったので
道標から下の小屋に掛けられていた「粟原案内地図」を確認した。ここであの十三石塔の場所が粟原寺跡であること天満宮は天満神社であることを知った。
再び、気になる電柱番号札[シチュウ]を確認すると
この付近で
旧桜井市立粟原小学校の建物を確認した。
ほどなくこの場所へ到着。ツアーが歩き始めるまでになんとか戻ることができた。
私は旧粟原小学校に1947年4月から6年缶在籍しました。写真の天満神宮の南側には「史跡粟原寺」という石碑と7,8個の柱石がある広場があります。710年頃に建立されたこのお寺は550年位前、大水で流失したと言い伝えられています。この史跡の地はコンドウ(金堂?)ですが、この村には外にもカネツキドウ(鐘撞堂?)、ダイモン(大?)、カショジ(かしょ寺)など、寺にちなんだ地名が残っています。粟原(オオバラと読みます)という地名ですが、昔、神武天皇が東征でこの村の半坂坂を通過されるときに粟が沢山植えられていたので粟原と名付けられたという伝説を父からききました。この村は私の郷里です。写真の中にわたしの生家もありました。
森野嘉將 さん
コメントありがとうございます。つかのまでも郷里を思い出していただき幸いです。
この時は集団行動で昼休みの寄り道だったため、「史跡粟原寺」を訪れることができませんでした。
再訪の機会があれば、ゆっくりと散策したいものです。